社会

寄付

 昨日は、東京美術倶楽部というところで仕事があって、そこでもまた、熊本地震の寄付金を求められました。寄付行為というものは、本来、極めて個人の自由に委ねられるべき社会的行為であって、またそれは、それぞれ個人が、憲法19条で保障された『思想、信条の自由』を発揮する機会でもあるわけです。寄付を求める側は、あたかも人間の良心に従って、当たり前のように熊本地震被害者のための寄付金(あるいは、義援金、支援金)を求めますが、寄付しないという立場もあるし、さらにいえば、民主主義の根幹というものは、その理由の如何に関わらずその個人の自由が尊重されなければならないのであって、具体的には、そこに強制力が働かないように、寄付を求める側は、自由な判断でよいことをまず明言しなければなりません。

   私自身は、これまで寄付を求められて、それに応じたことはありません。それは、寄付を求める側にも、寄付をする私自身にも何か釈然としないものを感じるし、私なりの寄付への考え方があるからです。
 以前、町内会に属していたとき、その町内会の役員さんから、緑の羽根募金を求められ、それを断ると、その役員さんは非常に憤慨されて帰って行かれました。こういう場面は、寄付に関わることでなくとも、何かを同調するように求められて、何度も経験したことがあります。私はそういうことに慣れている方だと思います。しかし、そういう場面に遭遇する度に、この国の暮らしにくさというものを感じるし、そういう小さな共同体(町内会)によって成り立つ社会は、民主主義に悖る社会だと私は思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

チリ紙交換と托鉢

   自宅にたまった新聞を縛っていると、その度に、20代の初めにチリ紙交換をしていた時を思い出します。私の実家は古本屋をしておりましたので、時々チリ紙交換のおじさんが古本を売りにやってきます。私はその頃、西濃運輸の集配運転手をやめて古本屋の手伝いをしていました。チリ紙交換のおじさんから、真面目に働けば月20万近くは稼げると聞いて、古本屋の手伝いをやめて、それから2年ほどチリ紙交換の仕事をします。ちょうど子供が生まれた頃で、雨が降らない限りは、毎日朝8時に家(市営住宅)を出て夕方6時に家に帰ります。仕事の途中、知り合いに出くわすのは嫌でしたが、家族三人の生活も成り立って、家に帰って飲む一杯のビールが、この頃ほど美味しく感じたことはなかったように思います。
   
 私にとってこのチリ紙交換の経験は、私の人間や社会の見方に、少なからず影響を与えたと思います。説明するまでもありませんが、チリ紙交換という仕事は、トラックに拡声器を付けて、『ご町内のみなさま、こちらはチリ紙交換車でございます。古新聞、古雑誌、ダンボール、古布などございましたら、トイレットペーパー、チリ紙と交換しております。』とアナウンスしながらできる限り網の目のように路地から路地をまわります。立派なお屋敷もあれば、六畳一間の安アパートまで、一度はヤクザの事務所に呼ばれたこともありますが、いうなれば、上から下まで、ありとあらゆる階層の人々とその暮らしぶりを垣間見るわけです。今から振り返るとその当時は、他人との境界が今よりも緩かったのでしょうか、呼ばれると、たいがいは靴を脱いで家の中まで入って、押入れの中に積まれた新聞をビニール紐で縛ってまとめます。その間、缶ジュースをホイと渡してもらったりとか、ご苦労様やねと声を掛けてもらったりとか、そんなことは一度たりともありません。また、トイレットペーパーは要らないよ、持って行ってくれたらいいと言われたらことも一度たりともありません。

 出家したお坊さんが雲水となって托鉢の修行をします。私のチリ紙交換時代はそれに似ているとも思うのです。出家するというのは、家も仕事も、親も家族もお金も一切を捨てて、無一物になって仏道に入ることです。今は出家僧などいませんので、お坊さんも我々と同じ在家です。僧侶というのは世間の一職業と変わりません。変わらないというよりも、お坊さんのほうが庶民より金持ちで、上等な畳の上で暮らしをしています。さらに言えば、お坊さんよりも、他の仕事をしている人のなかに、深い信仰を感じる人がいます。さて、なぜ私のチリ紙交換時代が、托鉢の修行に似ているかと申しますと、修行僧が無一物になって托鉢をするのは、世の中の最も低いところに身を屈(かが)めるということです。托鉢というのは乞食と同じですから、乞食となって、最も低いところから世の中を見上げるということです。そうしますと、飢えて苦しむ人の気持ちも、隙間風の吹き込むあばら家に住む人の気持ちもわかります。それ以上に、人間の裏側の姿をよく見渡せるのです。

 仏教の専門家の方が、どう言われるかは知りませんが、出家をするということの一つの意味は、そういうことだと私は思います。チリ紙交換は乞食になったわけではありませんが、私は、そんなふうにこの頃のことを思い出します。それは人間と社会の実像を考える上で、良き経験であったと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

清原選手

 友人とは何でしょう、友情とは何でしょう。 清原選手が警察に捕まって、彼の友人だと称する人たちが彼についてコメントをして、残念だとか、悲しいとか、殴ってやりたいとか発言をしています。 友人にもいろいろあるけれど、真の友人と呼べる人は、何か困ったとき、できる限り力になろうとする人のことではないか、何か辛いことがあったとき、悲しいことがあったとき、自分の出来事のように気持ちを寄せてくれる人のことではないか。 清原選手の真の友人であるなら、彼を助けてやらなければならないではないか、彼の無実を信じてやらなければならないではないか。残念と言った彼の友人と称する人がいる。残念とはどういうことか、彼が犯罪を犯して何が残念なのか。こんな犯罪人の友人であったことが残念だということか。彼が華やかりし頃は、友人である事を誇らしく思っていたのではないか。殴ってやりたと言った彼の友人と称する人がいる。彼がもし罪を犯していたのなら、彼はその刑罰を受ける。それだけで十分ではないか。なぜ、友人であった者が、さらに彼に罰を与えるのか。

憲法第31条
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

 彼の本当の友人であるなら、彼が罪を犯したことが真実であるなら、何も言わず黙るしかないではないか。 黙って、彼が暗闇に落ちなければならなかった、その苦しみが何であったのかを思って考えてやることしかないではないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

朝青龍の品格

わたしは、政治家であろうが、相撲の横綱であろうが、社会の手本になるような人格者でなければならないとは思わないし、マスコミや世間が品格や正義を掲げて、辞めろだの責任を取れなどと、わあわあと個人を攻撃するというのは決してよいことだとは思いません。朝青龍の引退は、実際は品行不良のかどで強引に辞めさせられたわけですが、そもそも相撲は、土俗的な庶民の娯楽、見せ物であって、なにも日本人の美徳を代表などしていません。力士に品格など求めるようになったのは最近のことです。相撲を日本の国技といい、日本人の営みの内に正統に位置づけたいのなら、土俵のあの白い俵の内は、乱暴で残酷な荒ぶる神の宿る場所であり、力士は荒ぶる神の化身となって民衆を熱狂させる。それが相撲の本来の伝統的姿であって、相撲という世界は品格とか権力とは対極にある民衆の怨念の渦巻く世界です。そういう意味で朝青龍は、まさに荒ぶる横綱として立派に相撲の伝統を担っていたではないですか。それをたかだかシナリオライター如きが、たかだかマンガ家如きが、荒ぶる神に向かって「私は横綱とは認めません」なんて勘違いも甚だしいのです。わたしは、なにも横綱であればなにをしても許されると言っているのではありません。朝青龍を荒ぶる神に祭り上げずとも、これまで朝青龍が非難されてきたことも、今回の一般人とのいざこざも、一人の人間をその人のその人たらしめているものを奪い葬るまでの断罪を受けることであろうかと思うし、誰にそんな権利があるのかと思います。わたしは、小沢一郎にしても、その秘書たちにしても、手錠をかけ、逮捕し、一刀両断に断罪されなければならない人たちなのかと思います。彼らは、自らの仕事を一生懸命全うしようと生きている人たちであるし、その仕事を離れれば、われわれと同じ一人の市民であって、決して極悪人ではない。長く日本人の道徳の規範となった儒教には中庸という言葉があります。何ごとも一方に偏るとうまく行かないということがあります。日本人で最も品格があったと思われる聖徳太子は「和を以て尊しとなす」と言っている。その聖徳太子が信仰した仏教では「一文(いちもん)不知ノ愚とんの身ニナシテ」と、人の品格を語る前に己の姿を見ろと教えております。要は、物事は一方から見るのではなく、多角的に注意深く心を働かせ、己を省みて、人に対して寛容に慈悲深くあらねばならんということです。わたしは、先に書いたように、何でも許されるということが言いたいのではありません。朝青龍の素行にしても、小沢一郎のお金の問題にしても決して褒められることではない。しかし、そのことよりも、今の社会が、マスコミも世間も、こぞって品格だの正義だの振りかざすことのほうが、よほど気をつけたほうがいいし、そういう傾向が強くなる社会というのは、不況や政治腐敗などへの不満が背景となって起こった二・二六事件前後の社会状況と似ていないとは必ずしもいえないでしょう。

最近、山本空外の「無二的人間」を読みました。無二的人間とは、簡単にいえば、他人を生かして、自分を生かすということです。断罪して切り捨てるのではなく、朝青龍も小沢一郎も生かす。生かして社会のために役立たせる。そういう道というのは、紛争のない、諍いのない、穏やかな社会への道筋ではないか。そんなことが書いてある本です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『日本はもう少し個人が自立した社会になれないか』

個人が自立した社会というのは、国に対しての一個人、会社に対しての一社員、学校であるなら、学校に対しての一教員、あるいは個人でなくとも、文部科学省に対しての教育委員会、教育委員会に対しての学校であってもいい。そういう個にあたる者が統括するものに対し単純に安易に受動的に従うのではなく、自らが考え、自ら判断し、自らの責任で行動する、そういう個によって成り立つ社会、それが本当の民主社会、成熟した自由な市民社会であって、そういう社会であるべきだと私は思う。では、今の現実の日本の社会はどうか、個人は自ら考え、自ら判断し、自ら責任を負って行動をしているか、そうではないだろう。それとは反対に自ら責任を負うことを恐れ保身にのみ汲汲としてはいないか。さらに、日本人は北朝鮮人と同じように元来が全体主義気質なようであるから、すべてが白に染まることにも赤に染まることにも、それを気味悪いとか気持ち悪いとか異様であると感じる感性に乏しい。結果、列を成してその列からはみ出さないことばかりに神経をすり減らし物事の本質を見失う。そして憂うべきはマスメディアである。私はマスメディアの特にテレビ局に大いに問題を感じる。例えばつい先日のテレビ朝日の報道ステーションでは、民主党と自民党を比較した世論調査について《それは意外なものであった・・》とCMの直前でナレーションを流しその結果をCMの後に続けた。《それは意外なものであった・・》と感じたその主体は誰か、こういうその主体のわからない無責任で安易で気味の悪いアナウンスを今のテレビ局は平気でする。私はテレビ局がテレビ局の意見や感想を述べるなと言うのではない。述べるのであれば、「どうなんでしょうか・・・」とか、意味の分からない表情で次のニュースに移るのではなく、はっきりと「私はそう思います」とか「そう考えます」とその主体とその意見をはっきり示すアナウンスをするべきである。そして、(新型インフルエンザについて)冷静に対応してくださいといいながら、逆に不安を煽るようにセンセーショナルに喧伝するのであれば事実を正確に坦々と伝えることに徹するべきである。私は先に挙げた国であるとか会社であるとか学校であっても同じように、組織はその中心に真っ当な見識があってはじめて真っ当に機能するのだと思う。そういう中心のない組織は翻っていえば、責任の所在のわからない組織であり、自らが考え、自ら判断し、自らの責任で行動するという個人の自立した姿をそこに想像することのできない組織である。今のテレビ局や新聞はそういう組織ではなく真っ当な見識が働く真っ当な組織であると断言できるであろうか。問題はそういう組織が巨大な影響力を持つメディアを手中に持ってそれを行使するということである。さて、原点に戻る。日本人はどんな場面でも、自らが考え、自ら判断し、自らの責任で行動することができるか。日本人は先に挙げた、国、会社、学校のような個人を統括するものが個人を覆い個人の上に聳えるものだと信じてはいないか、国の組織、政府や検察や裁判所をいまだに『御上』だと信じてはいないか、テレビや新聞の報道を鵜呑みにしたり煽られたりしてはいないか。私はなにもそれらを信じるなとか無用であるとか言っているのではない。もしそういう組織が私たち個人を覆う絶対で巨大なもであると思うのならそれは幻想であると言っておきたい。そして、自らが考え、自ら判断し、自らの責任で行動することができる個人によって成り立つ組織は、組織であっても個人の顔が見え、その意志の所在、その責任の所在が個人にあってそれが見えるということである。旧日本軍という組織が真っ当な組織として機能せず、無謀な戦争へと突き進んでしまったその原因の本質は、その中枢に真っ当な見識を有する個人が存在せず、さらに、自らが考え、自ら判断し、自らの責任で行動することができる個人によって成り立つ組織が個人の見えない、責任の所在の見えない組織に変貌していったことに他ならない。

日本はもう少し、個人が自立した社会になならなければならないのではないか。

付記

去る21日、京都で1名の新型インフルエンザ感染者が発生したことによって京都府教育委員会は、京都市にあるすべての府立学校を翌日より6日間の休校とし、同志社、立命館などほぼすべての大学がそれに追随し6日間の休校措置をとった。そのなかで京都大学は【新型インフルエンザに対する本学の方針について】として次のような声明を発表した。

【京都市内において新型インフルエンザの感染が確認されたところです。また、京都市、京都府から休校も要請されているところでもあります。本学においては、今回の新型インフルエンザへの対応のため、感染症対策会議およびインフルエンザ対応専門家グループを設置し、医学的、生物学的見地をふまえ対応方針(最新の方針は平成21年5月20日付け第4版)を決定してきたところです。 今回の、京都市内においての感染確認をふまえ、上記対策会議等で検討の結果、本学においては、現時点においては、通常どおりの授業を行うこととします。 なお、今後、流行範囲および規模、病原体の毒性の程度、学内感染の有無等の状況により、現在までの取扱いと同様に専門家の意見をふまえたうえで総合的に評価を行い、状況によっては全学一斉休校・・】

私は京都大学独自の措置が正しいとか正しくないということではなく、そこに大学としての自立の精神があり、さらに、大学の中枢に一つの見識があり、その見識が機能する組織であるということであり、つまりは、京都大学学長の見識と責任がはっきりとそこに見えるということである。余談であるが、正岡子規は雑誌「ホトトギス」を学校令の下に束縛されている学校に比して、不羈独立、やりたい放題の私塾のようなものだと喩え、私塾には一種の気風があると言った。インフルエンザの対応で揶揄するつもりで言うのではなく、私塾にそういう一種の気風があって個性的な人材を育てるのだろうと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新型インフルエンザ・京都奈良修学旅行突然中止

この頃、小沢一郎批判にしても新型インフルエンザ騒動にしても、つくづくこの国は嫌やなーと、生き苦しいなーと思いいたります。今日は娘の明日からの京都奈良修学旅行突然中止を担任から連絡を受け、腹が立って担任にまくし立てて文句を言ってしまいましたが、(万一)インフルエンザにかかって死んだっていいじゃないかと怒鳴り散らしても、こっちの気持ちは、この担任教師にも大半の日本人にもわかってもらえないでしょうから、もう決定してますからと言われてみればしょせん徒労感と無力感しか残らず、明治の頃、ゴホゴホと咳き込む子規を見舞った友人たちはたぶんマスクもしなかっただろうし、昔の日本人は結核で床に伏す身内や友人にどういう心情で接していたか、それを想像すると、そのころの日本人は今よりは遙かに凛としていたというか淡々と生きていたのではないかと、空しい気持ちの向こうでぼーっと思い浮かべます。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

「結婚式祝賀会実行委員会」

今朝の中日新聞に、ノーベル賞の益川敏英さんの結婚式の話しが載っています。(名古屋ノーベル賞物語19)「山椒は小粒でもぴりりと辛い益川君 しっかり屋で時には甘えん坊の高橋さん」「彼は素粒子を知りたい 民主的な社会を築きたいと 彼女は平和で豊かなくらしが出来る世の中をと、共にがんばっています」。これが、昭和42年(1967)に結婚された益川敏英さん、高橋明子さんの結婚式祝賀会の招待状に書かれた言葉だそうです。二人の結婚式は、仲間たちによって「結婚式祝賀会実行委員会」が組織されて、「家庭の民主化とは」「家同士の結び付きでなく本人同士の意思が大事」「平和だからこそ結婚も、研究もできるんだよね」と結婚式祝賀会実行委員会ではそんなことが論じられ、結婚式は神や仏の前ではなく、二人の恩師の坂田昌一さんが「式司者」となり「友前」式で行われたそうです。当時、私は6歳。私の父は全共闘以前の全学連世代にあたり、家の壁にはマルクスとチェ・ゲバラの写真が掲げてあるような家庭でしたので、ベトナム戦争が次第に泥沼化し学園紛争が活発になっていく当時の時代の雰囲気のようなもは、幼い記憶のなかにも、多少は感じることができます。益川敏英さんも、そういう時代の真っ只中に二十代を生きて、デモに参加したり、米原子力潜水艦寄港反対運動の会場に講師役で派遣されたりしたそうで、この結婚式祝賀会の招待状も、「結婚式祝賀会実行委員会」という名称も、いかにもこの時代の人たちだなと感じます。今、それから40年以上の月日が流れ、時代の様相も一変し、今の二十代の人たち、それは私の世代も含めてですが、その当時の益川さんのような人たち、その時代とその人たちの心持ちのようなものをどんなふうに感じるのでしょうか。たぶん、特に今の二十代の人たちは、何も感じないでしょう。何も感じないことにとやかく言おうとは思いませんが、どんな時代であろうと、社会や国家にはその構造というものがあって、その構造のからくりのようなものを見抜く力がなければ、特にこれからの世の中は、個人が個人の力で生きていくことが非常にしんどくなる。今日の益川さんの結婚式の話しを読んで、そんなふうなことを思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

裁判員制度

来年から裁判員制度というのが始まりますね。
私は法律の専門家ではないけれど、こういう制度を法律として定めることに多いに問題はあーりはしませんか。これは、私の体験的法律解釈ですが、まず大前提から申し上げれば、基本的に法律よりも、自分の信じる意思の方が上段にあって、その信じる意思が真に普遍的真実を反映しているのなら、法律はその意思の下にあって然るべきものです。要するに、法律というものは、絶対的に個人を支配するものではないということです。ですから、イラクでの自衛隊活動を違憲とする判決が下されても、靖国神社参拝を、憲法で禁止されている宗教活動に当たるという違憲判決を受けても、〈そんなん関係ねえ〉とばかり政治家は無視している。立派な政治家先生が法律を無視する手本をみせてくれているわけです。三権分立という、インチキな建前がありますが、三権分立というのなら、四権分立にして、そこに個人と加えるべきですね。私は、以前このブログで、『小沢一郎と日本の国際貢献』と題して、《日本は国際社会の一員として、国際平和への責任を負わなければならない。そして、それについては国連が中心になって議論をし、国連の同意による、国連の活動としての自衛隊の海外派遣を法制化しなければならない。これは、いかにも正しく、立派な人間の振るまいのように思えます。小沢一郎先生が吉田松陰先生になって、正しい道には困難もある、嫌でも引き受けなければならぬこともある、そのためには命を投げ出す覚悟も必要なのだといっているわけです。しかし、しかしです、しかしそれは正しくとも、日本にとって間違った選択だとわたしは今後論考を進めたいのであります。》と書きました。この先で私が言おうとしたことは、当然、その向こうに『徴兵制』という問題が開けてくるわけです。こういう問題、どういう問題かといえば、個人の意思や自由というものに対置する『徴兵制』、あるいは『裁判員制度』、つまり現実の形として露呈してくる『個人』と『国家』という問題です。私は冒頭、法律というものは、絶対的に個人を支配するものではないと申し上げましたが、それはあたりまえの個人「律」、心構えのようなものです。そうでなければ、法を破って革命など起こせないでしょう。例えば、大日本帝国憲法というものがありますが、その第1章第1条に、《大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス》と書かれているわけです。こんなものは、こんな私でなくとも、今は誰も認められないでしょう。少々話しを纏めますが、『憲法』というものがありますが、ここには、その法体系の総論、基本的理念を表明し、法律はその理念の下に構成されるわけです。私は、市民社会(国家ではなく国)というもは、個人個人が成長し、本当の意味(公正な)での市民法を築かないといけないと思うわけです。話しが纏まるばかりか拡散していきますが、日本の封建社会、あるいは封建制というものは、結局、敗戦まで引きずられて、日本人と、世界の多くの人々の惨憺たる犠牲の上に、崩壊したわけです。取り敢えず崩壊した。そして、それが占領国憲法であろうがなかろうが、『日本国憲法』というものができたわけです。私は、前文を含め、ほぼ素晴らしい憲法だと思いますよ。ただ問題は、第1章の「天皇」と、第2章「戦争の放棄」で、「天皇」については、単純な言い方で申し訳ないけれど、天皇がお気の毒ですよ。今の皇太子は私と同じ世代で、以前は、同世代では私の最も尊敬する人物の一人でした。それは、人間が正直で純で、それが人格から醸し出ていて、奥さんを、私が命懸けで、とは言わなかったけど、私が守ると宣言したでしょう。私の不満は、その奥さんを幸せにはしていないところですが・・、要するに、本来は天皇家は天皇家。昭和天皇の子が天皇を《世襲》するなどという、不公正であり、市民社会の原理に最も反目する概念を憲法で規定することはないのです。ですから、せめて、天皇は国事行為などせず、日本の文化としてこれを保持する程度にして、天皇家が伝承してきた習俗を保存していってもらえればいい(あくまでも、それすら天皇家の自由意志にまかせるべきですが)。「戦争の放棄」については、戦争なんて、こっちの任意で始まるわけではないので、向こうから喧嘩してきたら、どういう方法にしても身を守らないかんわけで、こんな条文は、それこそ基本的市民権に反しますよ。そういうことで、この二つを除けば、前文を含めほぼ素晴らしい憲法だと私は思います。ですから、私は何も単純に法律は守らなくていいと言っているのではないわけです。私は、基本的に日本国憲法を支持しているのですから、革命を起こそうなんて微塵もたくらんでいないわけです。それどころか日本国憲法を遵守する精神です。そこで、長々、だらだら書き綴っておりますが、要するに、私は、死刑制度を是認している日本の司法の要請には従いたくないのです。さらに本心を言えば、死刑制度があろうがなかろうが、権力の側には立ちたくはないのです。こんなふうに言うと、『裁判員制度』は、司法に市民の感覚を反映させて、より公正に行うためだと反論されるでしょう。しかし、そうであるなら(ここのところが一番言いたいポイントなんです。)、この『裁判員制度』には、出頭を拒否すると罰則規定がありますが、そんなものは不要なんです。絶対に任意でなくては駄目なんです。これが、権力の横暴、思い上がりなんです。こういう性質、それは『徴兵制』も同じですが、法律は、こういう問題に関して、市民に対し強制力を有してはいかんのです。こういう問題、というのは、当然、日本国憲法に規定してある、『第19条、思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。』という、本質的な個人の自由意思に懸かる問題ということです。その自由意思は、別に思想的であろうがなかろうが、行きたくなければ、理由などどーうでもいいのです。つまり、少なくとも、この『裁判員制度』の罰則規定は憲法違反であると私は考えます。もっとも、最高裁は、憲法違反という後ろめたさがあるから、召喚を受けた裁判員候補者、裁判員又は補充裁判員が正当な理由なく出頭しないときは、過料に処せられと、何が正当なのかさっぱりわからない言い訳を付けているわけです。要は、売れっ子キャバクラ嬢であろうが、私のように売れない美術商であろうが、行きたくなければ、堂々と拒否していいぞーと私は主張したいわけです。ついでに言うと、WBCの原ジャパンに参加したくなければ、それがケガが理由であろうが、愛国心など微塵もないことが理由であろうが、そんなことはどちらでもいいわけです。そういうことが、自然な市民意識のなかで了解されていく、そういう社会が成熟した市民社会というものだと私は思います。それにしても、世も末、末法の如く、この悪法、『裁判員制度』を日弁連が後押ししているんですからね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

全国展開する海外留学仲介大手「ゲートウェイ21」の破綻から。

『なぜ急にこんなことに』『これでは詐欺も同然』。『心配して足を運んだ女子会社員(20)は営業停止を知らせる張り紙を見るなり泣き崩れた。来年3月からカナダ留学予定だった。費用として支払った約120万円は高校卒業後、三年間働きながらこつこつとためた。』(以上中日新聞より抜粋)これを読んで、気の毒というよりも、阿呆やなぁ、知恵がないなと思いますね。留学するというのは、文字通り、学びに行くわけです。学ぶというのは、ただ外国語を学ぶということだけではない。異文化に触れて、多様な価値観を知って、難しい言葉で言えば「真人(しんにん)」、簡単な言い方をすれば、本当の知恵のある人間、本当に慈悲深い人間になるためにいくわけです。要するに、外国へ行って生活をする、学ぶということは、それを身を以て学ぶということですから、最初から、その第一歩を、自ら工夫することなく、わざわざ無駄なマージンを払って、パッケージツアーのごとく、人頼りにして、それで何かを学んでこれると思うなら、行くだけ無駄ですワ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

「ペシャワール会」

アフガニスタンで31歳の若者が殺害された。若者は「ペシャワール会」というNGOに所属していた。「ペシャワール会」というのは、「誰もが行きたがらない所に行き、誰もがやりたがらないことをする」を標榜し、主にアフガニスタンやパキスタンで医療支援や農業支援をしているという。若者を殺害したのはタリバンであるか今の時点では明らかではないが、どちらにしても、アフガニスタンはタリバンの拠点があり、世界で最も危険な地域一つである。わたしは、神風特攻隊の意味がわからないのと同じように、アフガニスタンのような戦場でボランティアをする意味がわからない。この「ペシャワール会」の代表が「われわれの治安悪化に対する認識が甘かった。」と声を落としたと報道されているが、もし本当にそんなことを言ったとしたら、さらに意味がわからない。ともかく、死ぬかもしれないような所に行ってまで、ボランティアをする感性がわたしにはわからない。砂漠の上の痩せおとった子供に手を差し伸べることも、例えば、日本で、難病の子供を抱えて、病院で寝泊まりして、昼間は働いて、疲れて倒れそうなお母さんの援助をしてあげることも、今も虐待され、怯えて、泣き声をさえ出せないような子供を救出する活動をすることも、一人暮らしの老人や障害者の介助活動をすることも、戦争体験者がその体験を伝える活動をすることも、さらに言えば、それぞれの持ち前を日々一生懸命、まじめにこつこつと積み上げていくことも、《人のためになる意味》に差はない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)