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靖国神社「遊就館」

本日、実に久しぶりに『美術館マンスリー』を更新しました。テーマは、《靖国神社「遊就館」》です。このブログ『知と愛』のなかで、以前に書いた《小沢一郎と日本の国際貢献①~④》、これは、国連の活動としての自衛隊の海外派遣について、わたしの考えを書いていますが、④まで書き進めてそこでストップしています。わたしとしては、《靖国神社「遊就館」》と重ねながら、今後この論考も進めて行きたいと思っております。

欠点の多い拙文ですが、両方併せて読んでいただきましたら幸いです。

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小沢一郎と日本の国際貢献④

前回わたしは、日本人の太平戦争での負けっぷりは見事で美しい、これこそ大和魂、大和心と書いたのですが、そのことは日本の戦争を美化したいがためでは当然ありません。日本人が長年培ってきた《国に忠、親に孝》というような儒教観、宣長のいう「もののあはれ」に象徴されるような日本古来の自然観、死生観、美意識。こういう日本人の持つ類い希な素晴らしい精神性というのは、心の奥底に宿しておくものなんです。そして、人間の本当の幸せ、社会の本当の幸せ、現在でいうなら、平和国家、非軍事国家としての日本の国際貢献がどうあるかを突き詰めて考えるための「日本人の教養」として生かすものなんです。決して、最後の一人まで戦うというような、無茶苦茶な国家主義に利用されるためのものではないのです。しかし、日中戦争から太平洋戦争へと向かう日本の国家は、あきらかに狂信国家へと変質し、その結果としての膨大な犠牲は無惨なものだといわざるおえないのです。特攻隊で散っていった若者、焼夷弾で焼き殺された何十万もの人々を美しい死だとは間違ってもいえないのです。

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小沢一郎と日本の国際貢献③

素直にそう思えない人たち … そういう人たちというのは、大概、日本の戦争を第二次世界大戦とか太平洋戦争とかではなく「大東亜戦争」と呼びたがる人たちで、要するにあの戦争は日本だけが悪いのではないし、日本は戦争するしか道が無かったというわけです。わたしは、そういう人たちに先ずいいたいことは、日本はあの戦争で、国民が一丸となって戦って、最後は徹底的にやられて、見事に負けたんです。そして、整然となんの文句もいわず、アメリカの占領を受け入れたのです。その日本人の振るまいの潔さというのは、見事だし、立派だし、美しいし、それこそが大和魂、大和心ではありませんか。アメリカの戦争のやりかたというのは、それは酷いもので、日本の敗戦が決定的であるのに、東京大空襲であるとか、広島、長崎の原爆投下であるとか、戦争であっても許されない大殺戮をアメリカはしているのです。それでも、その時の日本人は堪えたのです。わたしはそういう日本人を誇りに思います。わたしはそう思えばそれで十分だと思うし、そうであれば、靖国問題で中国や韓国に何を言われても癇にさわることもないでしょう。先に書いたように、日本人であるとか、外国の人であるとかでなく、犠牲になって死んでいったすべての人に向けて日本人は戦争責任があるのです。だからこそ、どうしてあんな無謀な戦争をしたのか、どうして戦争を回避することができなかったのか、どうしたら、もっと早く和平ができなかたのか、そういうことを、科学的に実証的に解明しなければならないのです。そのためには、日本人の精神性の負の部分として、目を背けずにしっかり反省しなければならないことが当然でてくるわけです。

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小沢一郎と日本の国際貢献②

わたしは、実際に戦争を経験したことはありませんが、戦争になれば、普通のほとんどの国民は、「戦争なんて嫌やなあ」と思うでしょう。しかし、戦前の日本であれば、「戦争なんて嫌やなあ」と思っていても、戦争に反対する自由も、徴兵を拒否する自由もないのですから、男も女も、子供も若者も年寄りも、それぞれの立場で気持ちに折り合いをつけて我慢するしかない。ここが戦争のおかしなところです。「戦争なんて嫌やなあ」とほとんどすべての人が思っている。それなのに戦争は起る。20世紀、世界は戦争の時代でした。日本も明治以降、一心不乱に近代化を推し進め、戦争に次ぐ戦争、やがてアジアの盟主となるべくアメリカに戦いを挑んで、すべては多大な犠牲の上に灰燼に帰して、もうとことん「戦争なんて嫌や」「戦争はしてはあかん」と日本人は骨身にしみて思った。もちろんそれは日本人だけではない、戦渦に巻き込まれたアジアの人々やヨーロッパの人々も同じようにそう思った。ここが世界にとっても、日本にとっても大きな節目のはずです。ここから、絶対に戦争はしてはいかんと、どうであれ、こうであれ徹底的に肝に銘じて、それから、ものを感じ、ものを考えないといかんのです。先ず、ここを日本の、日本人の立ち位置にする。このことは世界に通用するし、世界中の人が、国が、この立ち位置に立ってものを考えないといけない。そのためにも、先ず日本がそこに立つ。そこに立つということは、明治維新以降の日本を統治した国家全体、そのありかた、その歩みは、結局、行き詰まって、迷走し、第二次世界大戦において自国民を300万人も死なせ、アジア、太平洋地域にそれ以上の多大な不幸をもたらしたということを、日本人であるとか、外国の人であるとかでなく、犠牲になって死んでいったすべての人に向けて、日本人の戦争責任として受け取らなければなたない。このことを真正面で感じなければなんともしょうがないとわたしは思いますが、先ずはそこに立つということです。

こういうふうに言うと、素直にそうだとは思えない人たちが必ずいますが続きはまた。

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小沢一郎と日本の国際貢献①

わたしは、昔から小沢一郎が嫌いではなく、小沢一郎という政治家は、政治家のなかではめずらしく〈普通の言葉〉が話せる人という印象があります。〈普通の言葉〉というのは説明が難しいですが、作為があまりないというか、外に向かって自分を表現しようとして言葉を発しているというか、うまくいえませんが、聞いていて、その人を感じられるということなんです。小沢一郎が持論を述べた「日本改造計画」という本も、この本が店頭に並んで直ぐに読みましたが、共感することも多いし、正しいことしか書いていないと思いました。さて、先日の大連立辞任騒動も一息ついて、わたしは今も小沢一郎の民主党が政権を担って欲しいと思います。しかし、正しいことが正しいとは限らないわけです。正しくとも間違った選択だということがあると思うのです。それは、小沢一郎のいう国際貢献のあり方と恒久法の制定への動きについてです。日本は国際社会の一員として、国際平和への責任を負わなければならない。そして、それについては国連が中心になって議論をし、国連の同意による、国連の活動としての自衛隊の海外派遣を法制化しなければならない。これは、いかにも正しく、立派な人間の振るまいのように思えます。小沢一郎先生が吉田松陰先生になって、正しい道には困難もある、嫌でも引き受けなければならぬこともある、そのためには命を投げ出す覚悟も必要なのだといっているわけです。しかし、しかしです、しかしそれは正しくとも、日本にとって間違った選択だとわたしは今後論考を進めたいのであります。

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