岐阜県美術館 『いま、日本画は-遠き道 はて無き精進の道程-』
今日まで、岐阜県美術館で『いま、日本画は-遠き道 はて無き精進の道程-』という展覧会を開催している。出品作家の顔ぶれを見て、行きたいとは思わなかったのですが、一応、仕事に近い世界でもあり、昨日見に行ってきました。美術館の企画展というのは、自前で企画し開催するものと、新聞社や出版社が企画したものを丸ごと買って開催するものがある。今回の『いま、日本画は-遠き道 はて無き精進の道程-』は後者であろうと思う。岐阜県美術館の優秀で情熱あるcurator(学芸員)はこういうつまらない展覧会はしない。わたしは美術館業界に精通しているわけではないが、こういう展覧会を岐阜県美術館主催とすることには内心忸怩(じくじ)たる思いがあるのではないか。岐阜県美術館は過去に『在るということの不思議佐藤慶次郎とまど・みちお』、『織部(おりべ) いわゆるオリベイズムについて』、『日本的なるもの書くこと描くこと』、『「飛騨の版画」そのルーツをたどる。武田由平展』など企画者の意欲と努力が伝わる展覧会をいくつも開催してきた。美術館を取り巻く現状は厳しく、価値ある企画が収益や入場者数を優先する行政から評価されないという現実もあるでしょう。しかし、日本のプロ野球のように、当事者(経営者)の側が、野球に情熱や愛情がなければ、結局は衰退の一途をたどるように、美術館であっても、美術館が本当の美術の魅力、価値、あるいは厳しさを《表現して見せる場》でなくなれば、荒川修作がいうように本当に美術館の存在意味が、というよりもcuratorの存在意味が無くなってしまう。そういう今こそ、《いま、美術館は》と世間に問う気迫を見せて欲しいものです。さて、展覧会の感想を少々書こうと思って話しがずれてしまいましたが、『いま、日本画は-遠き道 はて無き精進の道程-』はタイトルは壮大であるけれど、内容は公募団体御三家の日展、院展、創画会の幹部の作品を並べただけ。これで『いま、日本画は』と現代日本画を切って見せたとするなら、日本画の世界というのもほとほと駄目になってしまったということを切って見せたということなんでしょうか。
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