芸術、思想、学問

オバマ大統領の就任演説全文翻訳を読んでもやもやと思うこと。

これは、知人のHさん夫妻と会食したときの話し。Hさん夫妻も娘さんもキリスト教徒である。私はHさんの人柄を知っているし、必ず日曜日は夫婦で朝の礼拝に行かれるので〈敬虔なキリスト教徒〉と言ったほうがいいのかもしれない。Hさんの娘さんが、韓国人の男性と結婚するというとき、その韓国人の男性はキリスト教徒ではなかった。Hさんは、娘と結婚する以上キリスト教徒でなくてはならないと言う。私は、どうしてですかと尋ねた。私は、普段、温厚でユーモアがあってリベラルなその人柄に接しているので、そのときのHさんの頑なな表情が意外であった。Hさんは、重ねてそうでなければ家族が成り立たないと言われた。私は、以前、あるパーティーの席でこの韓国の男性に会って話しをしたときのことを思い浮かべた。彼は光州の出身で、光州事件の真っ只中にいて、投石が頭を直撃して血が噴き出した様子を熱心に語ってくれた。私は彼に酒を勧めた。彼は戸惑いながら横で話しを聞いていたH夫人の顔色を窺っている。H夫人は少し苛立った感情を押し隠したような冷たい表情を浮かべて私にお酒を勧めないでと言った。彼は少しだけと言って、私の勧めた日本酒を一気に喉の奥に流し込んだ。彼はテコンドーの韓国チャンピオンの経歴があって、いかにも韓国人という風情で、頬骨が張っていて、背は高くないが骨が太くてがっしりしている。H夫人は、彼に聞こえぬように小声で、「彼は酒癖が悪いの」と私に言った。彼は、Hさんの娘と結婚するためにキリスト教徒になった。私はHさんの話しに不満であったがそれ以上深入りはしなかった。せっかくの会食が気まずくなるように感じたからだ。

今日、こんなことを書いたのは、オバマ大統領の就任演説全文翻訳を読んでもやもやと思うことがあったからだ。そのもやもやは、たぶん私自身が、《この国はキリスト教徒とイスラム教徒と、ユダヤ教徒とヒンズー教徒と、そして信仰をもたない人たちが集まった国です。》というオバマの持つ国家観の範疇には入らないからだ。私は何も、仏教徒を忘れるなと言いたいのでない。しかし、《そして信仰をもたない人たち》とは何ぞや!キリスト教徒とイスラム教徒とユダヤ教徒とヒンズー教徒以外は《信仰をもたない人たち》なのか。せめて、《あらゆる者は平等で、全ての人が自由で、誰もが最大限の幸福を追求する機会を与えられる権利をもっている》と崇高な理想を掲げ、信仰の自由を謳う国であるなら、《そして多様な信仰を持つ人たち》と言うべきではないか。日本人のこころを描いた画家、川合玉堂は、仏壇も神棚も持たなかった。そして人間の想像した神を信じなかった。しかし、野に咲く花を見て、路傍の石を見て、その姿を写しながらほろほろ涙を流したという。これを《信仰》と言わずに何というのか、これを《祈り》と言わずに何というのか。

オバマ大統領の就任演説全文翻訳を読んでもやもやと思うこと、それを、うまく表現できないから、そのかわりこんなことを書いた。

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ETV特集「吉本隆明語る」を見て思ったこと。

吉本ファンとしては、言葉を発しているその『貌』を見てみたいという欲求は当然あるし、言葉以上の何かを伝えることもあり得るのかもしれない。しかし、それはどういうことなのか、僕は中上健次の実際に言葉を発するその姿を見て、肉体が言葉を絞り出しているような強い印象を受け、そこに中上健次という人の人間の根っ子のようなものをまざまざと見たような気がした。そういうことがその人の文学の本質どう重なっていくのだろうか。それは一致すると考えていいのだろうか。どこに書かれている文章だったか思い出せないけれど、吉本隆明は以前、テレビに向けて自分は言葉を語れないという意味で、《書いたことでしか自分は責任をとれない》というようなことを書いていたと思う。小林秀雄は、『ゼークトの「一軍人の思想」』を昭和18年に文学界に書いた。小林秀雄は、これに遡る前年の昭和17年にドイツの軍人ゼークトの『一軍人の思想』(岩波新書)を読み、その感銘を語った講演録『歴史と魂』を発表し、さらにゼークトの『モルトケ』を読み、《この著者の思想の由って来るところの深く遠いのを知り、感慨をあらたにしたので、また、書いてみようと思う。》(ゼークトの「一軍人の思想」)と、この『ゼークトの「一軍人の思想」』を『歴史と魂』に重ねた。そのなかで小林秀雄は、《自分が精通し熟知した事柄こそ最も難しいと悟る道》こそ、《立派な行為者の道》であり、それを《一種の神秘道》と表現する。そして、《言おうにも言われぬ秘儀》を実行(行為)によって明るみに出すことを「不言実行」であると言い、次のように結ぶ。《文学者にも、無論、不言実行はある。喋る事と書く事とはまるで違った道だ。》と。

吉本隆明は、何を語ろうとしたのか、何を伝えよとしたのか。吉本隆明を駆り立てているものは何であったのか、ひょっとして、《言おうにも言われぬ秘儀》を実行(行為)によって明るみ出そうとしたのであろうか。吉本隆明は、83歳の、背中も曲がり、糖尿で歩くことも不自由な痛々しい我が身を引きずって3時間を超えて話し続けた。昔から吉本さんの語り口はたどたどしい。そのたどたどしさが83歳の年齢がさらにたどたどしくさせている。僕はふと三島由紀夫の最後の演説を思った。吉本隆明は畳の上で死のうとは思わないとどこかに書いていたではないか。もちろん三島由紀夫のように日本刀を振りかざすということではない。吉本隆明は三島由紀夫とはまったく違う。吉本隆明は、徹底的に自分を突き放すことができるのだ。徹底的に自分以外の者のために生きて書くとということが、それが自分のために生きるということであることをとことん知っているのだ。それが小林秀雄のいう「批評トハ無私ヲ得ントスル道ナリ」ではないのか。

テレビのなかで吉本さんは言葉をふらふらさせながら語り続けた。何か言葉が吉本隆明の周りをひらひらと舞っているようにも見えた。僕にはそれが楽しい。もちろん吉本さんは伝えたいものがあるのだ。そして僕たちは少しは真剣に考えなければならない。そして、それを知るためには、吉本隆明という文学者が生涯をかけて書いてきた、その書く者の苦闘の道筋を、僕たちだって少しは骨を折って辿るしかないのだ。それはこれから吉本隆明という人が存在しなくなっても僕たちがしなければならないことだ。

こうして思うまま感じたことを書いてきて僕はよくわかった。吉本隆明は文学について語っていたのだ。文学は楽しいぞと、そのことを吉本隆明は僕たちに一番伝えたかったのではないか。

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ETV特集「吉本隆明語る」

今晩、NHK教育で10時から11時30分まで、吉本隆明の特集番組が放映される。
僕が吉本隆明を読むようになったのは、高校を卒業し、結婚をし、働くようになった18歳頃からで、恥ずかしげもなく言うなら、ある時まで、吉本隆明を父親以上の存在に思っていました。当然、僕は吉本隆明の言説から大きな影響を受け、僕の基本的考え方の骨格の一部になっているだろうと思います。そして、今も主著「共同幻想論」を読み返しているところです。僕のような者が、今さら吉本隆明を語るまでもありませんが、少なくとも日本の戦後を背負って発言を続けてきた吉本隆明の姿を、僕たちは目に焼き付けておくべきだと思います。ひょっとして、僕たちと同時代を生きる吉本隆明の姿をテレビで見ることができる最後の機会になるかもしれません。

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