宗教

笠原研寿という人

今日は終戦記念日・・、
そうは言っても特に感慨はないのだ。それもしょうがないでしょう、僕は戦争をしらないのだから。靖国に閣僚で唯一人野田聖子参拝す。「幼いころからの行事であり、閣僚であろうとなかろうと私人として参拝する」軽いな~、アホだな~、と思う。 

先日ある人に言われた。「俺はブログが嫌いだ」と。
まあ、確かにそんな気分もよくわかる。要するに野田聖子が軽いな~、アホだな~なんて言ってる暇があるならもっとすることがあるだろう、ということだと思う。

そこで今日は少しは世のためになることをと思い、笠原研寿という人がこの世にありしことを知っていただきたく、イギリスのマックス・ミュラーという人が『仏教はかくのごときの人を以って誇るにたれり。』とロンドンタイムズに寄稿したこの笠原研寿という人のための追悼文を、写経でもするつもりでここに書き残しておきたいと思う。笠原研寿は、富山県東礪波郡城端(南砺市)の真宗大谷派恵林寺の僧で、明治初め同門の南條文雄とともに宗門よりイギリスに派遣され、仏教学の権威マックス・ミュラーの下で梵文(サンスクリット)仏典を学ぶが、明治16年、31歳で志しなかば病に死す。

笠原研寿小伝 

明治一六年九月二十五日刊行 イギリス・ロンドンタイムス新聞寄書 南條文雄訳 

近日、日本より我がもとに達せし郵信は、我が年少なる友人かつ門人なる笠原研寿の死を報じ来れり。イギリスにては、この人の名はまだ広く知られずといえども、この人の死は必らず公示せざるべからず。ラスキン氏(牛津大学美術博士)誠に言わずや。我が輩は社会の意を注がず、或いはついに聞き及ばざるところの人々といえども、その事業に力をつくし、かつ我が輩をして最も善く力を用うべきの道を学びえせしむる者の行状を録せんと要するなりと。我が友の行状は、すなわち我が輩をして常に驚嘆せしむ。彼多く熱心にしてしかもその結果をえざりし者の一なり。その驚嘆の情況は、あたかも我が国中の少なき果木の美花爛熳たりしもの、一朝の厳寒にあたりついにその美と将来の希望とを失いし者のごとし。笠原研寿は年少なる仏教僧徒たりしなり。一八七六年(明治九年)にその友南條文雄とともに英語をロンドンに学び、爾後に梵語を牛津に学ぶために、日本よりイギリスにまでその本山より送られたり。この二人はともに一八七九年(明治十二年)を以って我が許にいたれり。しかして若干の艱難に遇いしといえども、実直勉強の勢力を以ってついにその語に達し、少なくとも仏教の聖教をその原語すなわち梵語を以って読みうるにたるまでにいたれり。最初には彼らはほとんどその日本より遠く牛津にまで来りし目的を我に説明しえざりし、しかして彼らの進歩は我をしてその成功の望みを絶せしむるほどに遅緩なりし、しかれども彼ら自身はその望みを絶せず、しかしてついにその結果をえたり。笠原の牛津にありしや、その起居はなはだ単純、さらに愉快歓楽のことにその身を委せず、しかして少しく閑散の行歩をなせしのみ、煙を吹かず、酒を飲まず、小説と新聞紙とを読まず(訳者云日々新聞を読むの暇なかりしなり、さらによまざりしにはあらず)。日をおうてその業に従事し、ときありて数週間我とその同学南條文雄とを除き、その他人の人と面語せざりき。笠原は雅正に英語を話し、かつこれを書せり、しかして少しくラテンと法蘭西(フランス)語とを学び、いささか歴史と理(哲)学との最好の英書を読めり。笠原は日本に帰りしのち、最も有用なる人物の一人たりしなるべし。いかんとなれば欧洲開化中の善美たるところを貴重しえしのみならず、その自国の華美の幾分をも保ち、必らずいたずらに泰西の気風を模擬する者にはあらざりしが故に。笠原の行状は完全なりし。すなわち我欲なき人の自然の挙動なりし。しかしてその品格にいたりては、我はただこの語あるのみ、曰く我れ久しくこの人を監視せしといえどもいまだかつて一の詐偽あるを見ざりし。しかして疑うらくは、この四年間我れ牛津諸生中、或いはこの憫然なる仏教僧徒よりも清浄にしてかつ貴ぶべき精神を有せし者ありしかと。仏教はかくのごときの人を以って誇るにたれり。去歳笠原の牛津にありしや、いまだかつて愁訴せざりしといえども、我れその鬱悶の兆を視得たり。我れすなわち医師を見ることを勧。しかして医師ただちに確述していわく、我が年少なる友人の労症(肺病)はすでに膏盲にありと。しかしてその帰郷を勧む。笠原これを聞きてまた畏縮せざりし。しかしてそのとき静かなる音声を以って言いし語いまなお我が耳にあり。曰く然り、我が邦人多く労症に死すと。しかれども笠原はなおよく旅行し、しばらくセイロンにとどまり、その地の高僧と南北(即大小乗)仏教の相違を討論しえたり。その日本に帰るに及びその病勢とみに増長せり。笠原はしばしば我れに懇書をよせ、ただその学業につくをうるの力なきを愁訴せしのみ。その感覚を抑制すること(いわゆる喜怒悲歓不動於色)最も非常なりし。その我れに告別せしときにあたり、その浅黄なる顔色は、平常のごとく沈着なりし。しかして我れはほとんどその心中のいかんを解する能わざりし。しかれども我れ知ることあり。笠原の我れを辞せしのち、反覆我が家を顧望し久しく我が街路を徘徊せり。笠原さきに我れに語りて言えることあり。その生平の最も幸福なる日を我が家に消過せりと。笠原の最後の寄書に、一たびその本国にありての寂寥を愁訴せり。曰く病夫には耐久の友はなはだ少なしと。この書を寄せしのち久しからずして没せり。しかして七月十八日を以って東京においてその葬儀を行えるという。笠原の遺稿数部あり。他日その刊行を謀らんと欲す。そのうちとくに那掲閼刺樹那‘ナーガルジュナ‘(すなわち竜猛旧訳には竜樹という)の編集と称する仏教名目の古梵語典なる『達磨三掲刺哈‘ドハルマサングラハ‘』の梵本を発兌するを要す(『法集名数経』と題する趙宋の施護の訳せし支那訳は『明蔵則字函』中にありおよそ六紙半なり)。しかれども多年入業ついにその果を結ばざりしことを思えば実に痛ましきかな。いわんや三千二百万の日本仏教徒中一人の善良文明なる仏教僧徒のなしえたりし善事の多少いかんを想察するにおいておや、実に痛むべきのいたりなり。好往善人‘シテ‘(原語はラテン文を引用す、これローマ人常に墓石に題せしの語にて、「善き霊魂よおさらば」という永訣の語なり)我れ善く記す。さりし年モールヴェルン(イギリスの地名)岡上より、ともに明赫なる日没を見しとき、西方の空色は金色の帳幕のごとくなりし。しかして我が輩はその帳幕の何ものを覆蔵せしかを知らざりし。このとき笠原我れに語りていわく、彼処はすなわち我が輩のいわゆる蘇佉伐提‘スタハーバティー‘(すなわち安楽土)の東門なりと。笠原は遠く西方を注視し、しかしていっさいのかつて互いに親愛せし人とともに彼処に会し、かつ親しく阿弥陀婆‘アミダーブハ‘(すなわち無量光)仏を拝し奉るべしと信憑せり。 千八百八十三年九月二十日 牛津に於いて エフ・マックス・ミュラー   

                                                         

| | コメント (0) | トラックバック (0)

お盆の風景

子供のころのお盆の記憶といえば、祖母と一緒に盆提灯の飾りをしたり、仏壇に団子を供えたり、東京の叔父さんが帰ってきて、その叔父さんの懐かしい背中を見ながら墓参りに行ったことなど、子供であったころの自分自身の面影のなかに思い出されます。今のわたしの生活は、そういうところからあまりに遠ざかってしまって、家に仏壇や神棚があるわけでなく、墓参りに行くこともないので、お盆の風景というものはほとんど失われてしまっているのですが、しかし、わたしはおとなになって、そういう記憶を引きずりながら、靖国について考えたり、神道や仏教について考えたりするわけです。そういう意味では、こういう父親を持ったわたしの娘などは、日本人が受け継いできた宗教的な習俗を、子供のころの体験として感じる機会が少ないわけです。最近、そんなふうなことを思うようになりました。今日は、初めて、娘をわたしの母や祖母の墓に連れていってやろうと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

お盆/迎え火

今日13日は、盆の入りで、迎え火といって、ご先祖様の霊が帰っていらしゃる。

わたしは、子供のころお祖母ちゃん子で、母と祖母が言い争うと、必ず祖母の身方をしたものです。母はときどきそれが面白くない素振りを見せることがありましたが、わたしにとっては普通の優しい母でした。母は今から30年ほど前、わたしが中学3年生の時にガンで死に、祖母は今から20年ほど前に脳梗塞がもとで死んでいます。わたしは、母が死んだときに、葬儀屋がこの戒名はいくらと父と話しているのを聞いて、人間は死んでも金かと憤怒の思いに駆られ、葬式なんか止めてしまえと父に抗議しました。それ以来、他人様の葬式や法要ではその儀礼に従い、それを拒否できない自分を情けなく思いながらも、少なくとも自分の母や祖母や生後直ぐに亡くした次女の亡骸や墓の前で手を合わせたことはありません。46歳の今となっても、そんなことを言っている自分を半分は哀れに感じながらも、わたしはいまだに、神だとか仏だとか、そういう宗教的な何かに対して、身の処し方がうまくいかないのであります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)