書画屋よもやま話し

南條文雄という人

前回の「笠原研寿という人」に引き続き、「南條文雄という人」に少し触れておきたいと思います。南條文雄という人は大変詩作が好きであったようです。またそれを揮毫することを好んだようで多くの書を遺しています。南條文雄の書は残念ながら高く売れず、また安くとも売れずで、これは書画屋として反省しなければならないのですが、売れない人の作品を見ると、「あぁ、売れない人だ」という思いが先に立ってしまいます。もちろん、「(偉い人なのに)どうして売れないの」、「どうしてこんなに安いの」とも思うのですが、どうしてもその現実に負けてしまう。何か無気力状態になってしまう。そして「あぁ、売れない人だ」ということで過ぎていってしまう。これは書画の価値をはかる基本中の基本ですが、芸術家の書画であっても、学者、政治家、宗教家のような歴史人物の書画であっても、その為した仕事の価値、その人物の魅力によって決まってくるのです。そうでなければならないのです。そして、書画の価値と書画の価格というのは均衡していないとおかしい。価値のある人の書画が安く、価値のない人の書画が高くてはおかしいのです。もちろん量の問題もあります。当然ですが、作品が希少であればその価値以上に高くなる。また、量が多ければその価値以下に安くなる。南條文雄の場合後者ですが、だからといってその作品の価値が低いというわけではないのです。価値のあるものが安いのですから結構なことですが、問題はそのバランス、価値と価格のバランスが不当に崩れているのです。結局、書画屋の仕事というのは、そこをちゃんと見据えて商売ができるかどうかということが肝要なところです。不易流行という言葉がありますが、書画屋は不易を守ってこそ成り立つ、まずもって不易を求めなければならないと私は信じます。話しが回りくどくなりましたが、要は南條文雄は不当に安いと言うことがまずもって言いたかったことであります。そして、今はその現実の中でお客さんにお勧めするしかないのでありまして、『お金の無いかた』、『床の間に何でもいいから掛け軸が欲しい方』、『一幅で一年中用を足したい方』、また『真宗門徒の方』はぴったしでございましょう。南條文雄の場合、長良川画廊にお越しになれば、だいたい綺麗な二行詩書掛け軸で『20.000円以下』でございますから、通信販売やギフトショップで売っているようなあわれな掛け軸をお買いになるのであれば、どうぞ南條文雄の書をお買い下さい。そんなことで、少しずつ売れるようになれば、価格もその価値にふさわしい水準になってくるでしょう。さて、「南條文雄という人」についてですが、私はこのように偉そうなことをいいながら、実は南條文雄について梵語学者で郷土の偉人であるという程度の、「あぁ、売れない人だ」という程度の浅はかな認識しかなかったのです。(だから売れないのか!)しかし、南條文雄の人生の大凡を知り、南條文雄が自らの生涯の所感を述べた「爪雪処七十九年」を読み、そのなかに述べられている、《この身もまた同じ仮りの器である。》というところに我が意を得たりと痛く感動したのであります。そして、この人物の偉大さを知ったのであります。では、私ごときが余分なことはいいますまい、是非みなさまにも読んでいただきたく、ご紹介だけさせていただこうと思います。

「爪雪処七十九年」へ

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昨今の美術商業界について。

今回は少々、私の商売の宣伝をさせてください。

今、この経済状況のなかで、当然ではあるのですが、特に高額なものが厳しい、売れないといわれています。絵画に限っていえば、川合玉堂、竹内栖鳳、横山大観、前田青邨、橋本関雪、堂本印象といった近代日本画の巨匠。こういう所謂新画といわれる世界の大御所の作品が売れないといわれます。そして、そのことが全体に悪影響を与えているという印象を受けます。しかし、それは単純に経済情勢に因るのでしょうか。これまで、百万円以上の高額絵画の80%以上が百貨店を通じて販売されているといわれてきました。つまり言い換えれば、百貨店で絵画が売れないということです。私は、その要因が単純に経済状況に因るのではなく、美術品における百貨店商売、あるいはその商法が急速に破綻しつつあるのではないかと感じます。これは百貨店に出入りする業者から日頃普通に聞かされることですが、百貨店という世界は安いと売れないのだそうです。高いほうが売れる。私の印象を控えめに継ぎ足せば、交換会(業者のオークション)で120万円の川合玉堂であれば300万円前後のプライスカードが付いているという具合に。そして、お客が買う気のあるときに食わせるだけ食わせるのだそうです。あらかじめ値引きを想定し高いプライスを付け巧言令色に美辞麗句をならべて食わせる。いえ、お買いいただく。私は悪いのは業者の側であると思います。しかし、すべての百貨店のお客さんがそうだとはいわないまでも、おおよそ百貨店で絵を買う人というのは、本当にその作家や作品が好きで買うのではなく、要するに百貨店の外商にごひいきにされることに自尊心を満足させて、その有名作家というブランドを買う(買わされる)のではないでしょうか。少々言葉が過ぎたかもしれませんが、しかし、そういう百貨店商売によって何よりもわれわれ美術商が悲しむべきことは、結局、お客さんを金儲けのために使い捨てにしてきただけで、本当の美術品愛好者を育ててこなかったことではないかと思います。私はそういう百貨店マーケットというものがここにきて急速に縮小しているのは、ただ単に経済的要因だけではなく、そういう百貨店商法に巧く乗ってきた美術商自らの責任ではないかと感じているのです。しかし、それはそれとして、その影響によって新画の価格が下がることは、だからといって川合玉堂や竹内栖鳳の画家としての価値が下がるわけでは絶対にありませんので、本当に絵の好きな方が、普通の収入のなかで川合玉堂や竹内栖鳳を買っていただけるのならそれはそれで良いことではないかとも感じております。

少々が長くなってしまいましたが、長良川画廊のこれまでの姿勢もこれからの姿勢も、百貨店があいかわらず高額美術品の主要マーケットであっても、そこで苦労して仕入れてきた一点一点の作品を売ろうとは全く思いません。今後もできる限り、魅力のある価値ある作品を一点一点大切に私の思いを込めて、みなさまにご紹介していければと考えております。

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目利きの話し(椀伏せ)

昨日は、東京の美術倶楽部で行われる交換会に行っておりました。
交換会というのは、商人による競売買の場のことで、多くの交換会は、競り方式で行われます。昨日の交換会は、以前はこの「競り方式」でなく「入札方式」で行われておりました。入札方式というのは、書画骨董界では「椀伏せ」と呼ばれ、紙を貼ってあるアルミの椀(学校給食で使われていたような椀)に入札金額を書き、円盤を飛ばすがごとく札元に向かってひらひらと投げ込みます。競り方式の場合は、先ず、会主(交換会の主催者)が発句をし、そこから参加者の声によって値を上げていきます。椀伏せとは違い、全体の雰囲気とか、声を出している人がどういう人かを覗いながら声を出すことができるので、物に対して少々自信がなくても、競り落としたり、競り合ったりすることができます。しかし、椀伏せの場合は、自分だけの判断で値踏みをするので、物がわからなければ入札することが難しい。要は目利きの眼が試されることになります。椀伏せの交換会というのは、わたしのような駆け出しには難しく厳しい取引の場ではありますが、しっかりと品物を見ることができ、品物を見ながら諸先輩の話しを伺うこともできるので、勉強には大いになるわけです。いうなれば、昔ながらの風情ある伝統スタイルがこの「椀伏せ」の交換会ということです。しかしながら、進行に時間がかかり、多くの商人が参加しずらい椀伏せの交換会は、時勢に合わずだんだんと姿を消しています。昨日の交換会も、そんな事情から、以前は関東を代表する椀伏せの交換会の一つでしたが、現在はすべて「競り方式」に変わってしまいまいました。わたしにとっては、どちらにしても厳しい仕入れの場にはかわりありませんが。

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目利きの話し(続き)

「目利き」というのは、要するに真贋を見抜く眼と、その物の価値を見抜く眼、あるいは価値を計る眼があるかどうかです。「あの人は筋が悪い」などと揶揄される人というのは、その逆で、真贋を見抜く眼はもちろん、買う物の筋が悪いということです。買う物の筋というのは、値段の高い低いということでなく、たとえば同じ川合玉堂の真筆でも魅力のある物もあれば、魅力に乏しい物もある。別の言い方をすれば形の良い物もあれば、そうでない物もある。わたしなど目利きでないものは、せめて筋が良いと同業諸氏からいわれるようになりたいものです。ところで、一つだけわたしの尊敬する、誰もが目利きだと認めるあるお方からお伺いした〈物の見方〉をご紹介しましょう。私のような書画屋の場合、扱う物の多くは掛け軸ですが、先ずその姿を見る。姿を見るというのは、先ず表具から見るということです。「表具いき」とか、「調子」とかいいますが、そういうところから全体を見渡していく。良い物というのは、だいたい良い表具がしてあるということです。しかし、問題はそこからです。目利きであるかどうかはその先です。わたしでも、そこまではわかるわけです。真贋が良さそうだなというところまでは誰でもわかるのです。川合玉堂などは真贋の難しい物は少ないからよいですが、たとえば同じ玉堂でも浦上玉堂などは、良さそうだから良いとは限らない。近世絵画史に登場する画家の多くは、贋作の方が多く真筆は少ないのです。それを自らの見識に頼って、「1000万angrypunch」とヤリを突く。面白いもので、自らの見識に頼れない人は、お金がいくらあっても、10万のヤリも突けないものです。

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目利きの話し

前回の話しの続きです。世間でよく目利きといわれる人に、白洲正子、青山二郎、小林秀雄、川端康成といった面々が思い浮かびます。たしかに審美眼という意味では、こういう方々や、民藝の発見者といわれる柳宗悦などは優れていたのではないかと思います。しかし、審美眼というのは、直感的、感覚的、主観的な要素が強く働きますから、いわゆる相目利きに陥りがちで、わたしのような一応は商人の立場からすれば、やはり真の目利きは、商人のなかにこそいてほしいし、当然、先に名前を挙げたような素人の人たちとは違う商人の眼というものがあってしかるべきだと思います。ここで、目利き論を展開しようとは思いませんが、実際の商売の世界で、目利きの眼というのは、仕入れの場で発揮されるもので、市場で買うもの、あるいは買い方を見て、周りの者が「あの人は目利き」だとか、「あの人は筋が悪い」などというわけです。次回はその辺の話をしてみましょう。

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目利きの話しと鑑定士

18日から東京に行き、21日晩に岐阜に戻り、翌日は京都で、今日は桑名と、すべては因果な交換会(業者のオークション)の日々。わたしは書画屋稼業なので、ほとんど掛け軸、掛け軸、掛け軸と、月に何本(幅)の掛け軸を見るでしょうか。5000本から10000本位は見るでしょうね、凄いでしょう。日本にはどうしてこんなに掛け軸があるのかとうんざりしますよ。というより、うんざりするような掛け軸が大半だからでしょうか。そうは言っても、日々が商いの日々であると同時に修業の日々でもあるわけです。(My sonは脱落しちゃいましたけど) 私たち(駆け出し)にとって、修業というのは、ものをたくさん知る、覚えるということと、やはり目利きになることでしょうね。もの知りでも、どうしてか目利きとは言われない人もいますが、しかし、目利きは同時にもの知りでもあるでしょう。もの知りなんて言うと雑学博士みたいですが、本当の目利きは、ちゃんとした勉強をされています。要するに、根拠がなければものはわからないわけで、根拠がその経験であり勉強なわけです。ところで、最近やたら、鑑定士○×とか買い取り専門×○とか、鑑定買い取りの宣伝が目に付きませんか。何を隠そう「長良川画廊」も買い取り鑑定なんて言って、それなりに力をいれていますが、まず、そういうところに目利きはいません。わたしは書画のことしかわかりませんが、何でも鑑定団という番組に業界のガリバー思文閣の社長が出ていますね。この人は、間違いなく目利きだと思います。業界にはそうは言わない(そうは言いたくない)人もいるでしょうが、プロとしていろんな意味で目利きで実力者で尊敬に値します。だから本当はいかがわしい鑑定士などと名乗って欲しくはない。みなさん、間違わないでください。間違ってもわたしのことを先生なんて呼ばないように。鑑定士なんて資格はありませんから。たいがいは、鑑定士などと名乗っている人に目利きはいないと思って間違いないですから。

この話題はまた明日続きを・・。

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