郷土の話題

《故郷》

《私は》、このブログも、もう一つの『美術館マンスリー』というブログも、この《私は》という視点で書いているわけですが、時にはというか、しばしばですが、《僕は》と書き始めたくなります。しかし、やっぱり《私》かと気を取り直すのですが、そこには、《公》に対しての《私》という意識が絶えず前提にあって、一応は、その前提の上で、曲がりなりにも《公》に対して自己表現しているつもりでいます。

私の仕事上のイベント、『郷土の先人遺墨展』(次回は平成21年1月10~15日に開催)の目録に、毎回ではないのですが、「ふるさとに思う」というテーマで、文化に携わる仕事をしている郷土人に寄稿してもらうのですが、どの方も、《故郷とは何か》という問いは、簡単なことではないようで、私のほうでもそれはわかっていて、「何でも好きなことを書いてください」と一言付け足してお願いします。私はこのブログを始めたころ、仕事に関することはあまり書きたくないと書いて、そうは言いながら仕事関連の話題をちょくちょく書いていますが、どうしても単純に生業(なりわい)としての仕事というだけで、生活の大部分の時間を費やすのが嫌で、ブログのなかで仕事関連の話題に触れても、私なりに《公》に対する《私》という視点を絶えず含ませているつもりでいます。そういう意味で、「ふるさとに思う」というテーマで寄稿してもらうこともそういう意識が働いているからで、そんなふうに考えると、私は絶えずそうやって自分の仕事をしていることにあらためて気付き、もし、それでこのまま食っていけるのなら、一生アパート住まいであろうが、女房子供から落胆の視線を受けようとも個人的には幸せかなと思わないでもありません。

《僕は》、と書き始めたくなるのは、そういう意味での《私》と《公》として、自分の言葉を書くのではなく、《僕》として自分の言葉を書きたくなるということで、それは、《僕》と書き始めた途端、もう一人の《僕》が立ちあらわれてきて、意識は《公》とはまた逆の方向に向かっていくことになり、それでは《世の中への恨み辛みなど綴る》というこのブログのスタイルにはそぐわないので、結局、気を取り直して《私は》と書き始めるわけです。

さて《故郷》とは、それは先に触れたように簡単に言い表せるようなものではないし、《僕は》それを探すために生きているような気がしないでもありません。〈意識は《公》とはまた逆の方向に向かっていく〉と書きましたが、逆の方向というのは、今、ギャラリーウートレで開催中の『胎動 増川寿一』展の『胎動』、つまり、母親の胎内へと向かうことではないかとも思います。

一つだけ《故郷》について気付いたことがあります。旅人が山里の自然と人情に触れて、そこに居ついたとしてもそこは《故郷》にはなり得ない。そこは旅人にとって母性へと回帰できる場所ではないからです。そして、父性として母親の胎内へと向かうことが禁制であるならば、旅人が《故郷》に帰ることもそれは許されないことであると。

旅に生きたという芭蕉は旅に死すことを求めたといいます。芭蕉にとっての旅は決して帰ることのできない故郷を探し求める彷徨であったのかもしれない。あるいは、故郷を捨てるために、旅のなかに生きようとしたのかもしれない。それが母なるものへの回帰であるか、母なるものを捨て去るためだったのかはわかりませんが。

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郷土岐阜の偉大な思想家、久松真一

『人間ははっきりと意識するとせぬとにかかわらず、誰しも究極を求めてやまないものである。古来いつもどこにも哲学や宗教があるのはそのためである。哲学は究極に知ろうとし、宗教は究極に生きようとするものである。』(学究生活の思い出・学究生活以後)。

私は長良で生まれ育ち今も長良で暮らしています。私の父も母も祖父母も長良で生まれ育ちました。長男である私は江戸っ子の定義に倣えば《ちゃきちゃき》の長良っ子というわけです。現在の長良は岐阜市北部、長良川右岸金華山岐阜城を南にいだき、西は土岐、斉藤の居城があったという鷺山を境に、東は古津まで、百々ヶ峰を背に広がった地域といえばよいでしょうか。祖母は晩年に至っても長良橋を渡って岐阜の中心地に出掛けることを、「岐阜に行って来るでなも」と申しておりました。長良村が岐阜市に編入されたのが昭和7年ですから大正3年生まれの祖母にとっての思い出はこの長良村の中に息づいていたのでしょう。さて、久松真一という人物がこの長良村から生まれ育ち、傑出した思想家として大成し、晩年また長良に帰り長良で亡くなったことをみなさんはご存じでしょうか。もっとも私自身、久松真一の名を知ったのは、私が美術商として郷土岐阜にゆかりある先人の遺墨を蒐集するようになった平成6年頃からで、それまで私の少年時代に仙人のような豊かな髭を蓄えた偉大な老思想家がふるさと長良に暮らしていたことなど露ぞ知らなかったのですが。

久松真一は明治22年、岐阜県稲葉郡長良村大字福光字八代村(現在の岐阜市八代)に生まれ、明治41年、岐阜県立岐阜中学校(現在の岐阜高校)を卒業後、第三高等学校を経て、大正元年、京都帝国大学文科大学哲学科(現在の京都大学)へ進学します。当時の岐阜中学校校長林釟蔵は、哲学を志す決意をした若き久松真一に、京都大学の哲学には西田幾多郎という新進気鋭の仙骨を帯びた天才的哲学者がいて、「君、これはえらいぞ、この人の将来はみものだ」と語ります。

後年久松真一は、当時『善の研究』さえも発刊されていないにも関わらず、生涯の師となる西田幾多郎の将来をかくも的確に予言し得たこの林釟蔵なる人物について、「悠々せまらざる風格」の持ち主で「彼の炯眼やまことに追仰に値する」と書き記しています。林釟蔵は、慶応大学で福沢諭吉に学び、明治38年から明治44年に掛けて岐阜中学の校長を務めますが、その生涯、業績についてはほとんど紹介されておらず、いずれ郷土の先人の一人として調べてみたいと思っています。

京都帝国大学で哲学を学び、西田幾多郎に薫陶を受けた久松真一は、仏教哲学者として、同時に禅の求道者として、その生涯を学問と禅の修行のなかに生きます。私は平成14年の秋に、念願であった久松真一展を開催しました。僅か10坪ほどの小画廊での宣伝も十分に叶わぬ展覧会でしたが、私はあらためて久松真一の偉大さを知ることになりました。東京から大阪から京都から、久松真一に学んだという今は大学で教鞭を執られる学者の方々が何人も来られる。もちろん様々な職業の方が、「久松先生にお世話になりました。この娘の名前は久松先生に付けて頂いたのです。」、「この短冊は久松先生にいただいて家の家宝です。」と私に向かって熱心に語られる。私が神戸から来られた脳死臨調の委員を務められたという方に、「先生にとって久松真一とはどういう人ですか」と尋ねると、少し沈思した後に、「私にとっては、父親以上の存在です。」ときっぱりと答えられたことは今でも強く印象に残っています。久松真一が自らの人生を振り返った『学究生活の思い出』(久松真一著作集1『無中有路』)は次のような文章で始まります。《彼には、世の常の学者のように、学究生活といいうるようなものが果たしてあったかどうかは甚だ疑わしい。学者とは、純粋に学究することを第一義としてそれに専念し、学問的な業績を挙げているものを謂うのであろうが、そういう意味では、彼には学者の資格はない。生涯を通じて、彼にとっての第一義的関心は、学究というよりはむしろ絶対真実を生きることそのこと、すなわちいわゆる宗教的生活にあったようである》。私はこの言葉なかに、学者を超えて、学問を超えて、人を引きつけて止まぬ久松真一の魅力とその思想の本質を覗うことができるのではないかと思います。久松真一は昭和37年、長く暮らした洛北妙心寺山内より京都室町に移った後、昭和49年、岐阜市長良福光の実家に帰り、昭和55年、《我死すも引導追薦葬無用むくろは荼毘で骨なひろひそ》と末期の言葉を遺し、91歳でその生涯を閉じました。

今、この実家は、久松真一展の開催のために、たゆまぬ協力をしていただいた久松真一の姪孫の久松定昭さんによって、久松真一記念館として公開されています。記念館は書院と茶室からなり、自筆の書や原稿、著作などが展示され、郷土岐阜の生んだ偉大な思想家の一端を偲ぶことができます。この実家に隠棲する久松真一を訪ね、久松真一を礼賛する訪問者に対し、久松真一は次のように語ったそうです。「大事なことは私のことではなくあなた自身のことではないですか」と。

久松真一の著作は『久松真一著作集(全九巻)』他、主著『東洋的無』と『茶道の哲学』を講談社学術文庫で読むことができます。私たちのふるさと岐阜から育ち、真実なる自己を追い求めて止まなかったその《真人久松真一》の言葉にみなさんも是非接してみてください。

(久松真一記念館・毎月第二第四日曜日開館、予約制、お問い合わせTEL 058-231-5317 )

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岐阜新聞花火大会

今日は、長良川畔で岐阜新聞花火大会です。
先週は中日新聞花火大会、地元の人は岐阜新聞のほうが内容がいいと云いますが、
たぶんそうでしょう。

わたしは、花火大会で花火を見ることよりも、花火に見入る人々の顔を眺めるのが好きです。すべての人が、我が人生の幸せを祈っているように思えます。

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『いたずら編』の続きだぎゃー

『いたずら編』の続きだぎゃー。岐阜市立女子短大の学生がイタリアの世界遺産サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の大理石の壁に落書きしたという一件は、いたずらをした女子大生が自費で再訪し謝罪する一方で、親善大使に任命されるという、女子大生にとっては、ありがた迷惑な展開でしょうが、後は、女子大生がひたすら小さくなっていてさえいれば、めでたく一件落着と相成るでしょう。この、馬鹿馬鹿しい〈いたずら問題〉のそもそもの発端(馬鹿のはじまり)は、こころの美しい観音様のような人が発見する前にわざわざ大学へ通報する暇な(明るい)人間に発見されてしまったことと、(観音様のような人なら通報などせず、消してくださっていたでしょうから) 岐阜市立女子短大の学長がユーモアのない〈おりこう〉な学長であったことでしょう。(いっそのこと、大学を表彰してくれたらいいのに) しかし、『知と愛』ふうに、この問題を解釈すれば、この学長のように、大学を代表していると思いこんでる連中のこころの中に、所謂、「面子」「体裁」「保身」の日本が古来より育んできた儒教精神が息づいていると考えれば、それはそれで、日本文化を内外にアピールできたということで、一定の評価もできるだぎやー。

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いたずら

郷土文化顕彰のオーソリティーとしては、岐阜市立女子短大の学生がイタリアの世界遺産サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の大理石の壁に落書きしたという一件に触れなくてはいけません。この問題の本質は、〈いたずら〉は絶対にばれてはいけない。また、ばれても、それによる〈おしおき〉の程度を予期しておかなければいけない。という〈いたずら〉をする際の心構えができていなかったということで、〈恥ずかしいモラルの低下〉と日本人がめくじら立てることではございません。この〈岐女短〉という学校は、わたしの叔母さんの出身校でもある、それなりにまじめに勉強しないと入れない学校ですから、こんな程度の〈いたずら〉は、反省文くらいで勘弁してやってください。

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