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2016年11月

高樹沙耶の逮捕

 芸能人がテレビの場で、社会的な発言をするのは勘弁してほしいですね。それも何が取り柄なのかわからない連中に限って声を大にして発言している。それは芸能人だけではないし、テレビだけではなくマスメディアの中で発言をする全ての人に思うことです。もちろん真っ当な人の真っ当な言論はありますが、それはごく一部に過ぎないでしょう。批評家の吉本隆明さんは、テレビのような何十万人もの人間を前にして語るということに責任を持てないと書いています。それでも、もし発言をしなければならないのなら、漫才師なら漫才の世界の内から、アナウンサーならアナウンサーの世界の内から、音楽家なら音楽の世界の内から、つまり、自分の歩いている道の中で得た言葉で発言をすべきです。しかし、五嶋みどりのような優れたバイオリ二ストであれば、その道を修練しようとして生きているその姿が言葉であって人の心に響くし、その奏でる音がその人の最も信じることのできる言葉であるのですから、余分な戯言を発する必要はないし、そんな暇もないでしょう。

 吉本隆明さんがデレビのような場で発言できないと語ったのは、講演のような場や著作とは違って、何者かも知らないさまざまな人が見て聞いて、さまざまな受け取り方をして、そこには誤解もあるだろうし、例えば「人間は誰でも人を殺すことがあるのだ」と発言をすれば、吉本隆明は、とんでもないやつだというところでしか理解されない場合があるわけです。またそれを聞いて実際に人を殺す人がいても責任を取れないわけです。
 つまり、言葉というものは、発したら、その言葉に覚悟を持たなくてはならないということです。それが公の場であればよほどの覚悟がいるわけです。覚悟もなく、無自覚に無責任な言葉をテレビで言い放つということは、本当に悪いことだと私は思います。文章にしても、発言にしても、あるいは絵画や音楽に託された言葉であっても、言葉というものは、人間を人間たらしめるものであるし、その存在を支えるものです。そういう自覚が彼らにはあるのでしょうか。

 高樹沙耶という人が逮捕され、その経緯は詳しくは知らないですが、本人名義の建物の中で、男二人と共同生活をしていて、そこに大麻が見つかったということで逮捕されたわけです。家の中で大麻が見つかったら、即大麻所持の現行犯で逮捕されるのですか?、それならば、同一建物内で大麻が見つかれば、その建物の住人は全員逮捕されなくてはならない。それはおかしいでしょう。大麻の見つかった高樹沙耶の自宅には、同居人が二人いて、高樹沙耶がそれは自分の物ではないと主張するのであれば、同居人の物である可能性があるのだから、被疑者であっても任意で調べるべきです。
 テレビで芸能人やアナウンサーが高樹沙耶について、警察権力に追随し、犯罪者と決めつけて発言をしていますが、公の場で一個人を犯罪者扱いして、もし、不起訴で釈放されたら、その言葉はどうなるのですか、普通の神経の人間なら、その発した言葉が反転して自分の胸を突き刺すでしょう。普通の神経の人間であれば、その罪の重さに耐えかねて生きてはいけないでしょう。それを恐れるから、真っ当な人間は、よほどの確証と必要がない限り、他人を罰するような言葉を発しないのです。さらに言えば、警察官でも、検察官でも、裁判官でもない人間が、社会的な制裁を加える必要はないのです。一人の権力を持たない市民であるなら、同じ、一人の権力を持たない市民である高樹沙耶の身の上を心配してあげさえすればいいのです。それを仏教では慈悲と言うのです。さらに言えば、一人の権力を持たない同じ人間であるなら、仮に犯罪者であっても守ってあげなくてはならないのです。それを仏教では救済というのです。ここで言う、救済ということは、守ってあげるということがどういうことか、我が身となって考えるということです。

吉本隆明さんは、人は契機さえあれば、誰でも人を殺すことがあるんだと言っている。吉本隆明さんでなくても、親鸞も同じことを言っている。
そういうことを、他人を罰しようとするときは、よくよく考えなくてはなりません。

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