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裁判員制度

来年から裁判員制度というのが始まりますね。
私は法律の専門家ではないけれど、こういう制度を法律として定めることに多いに問題はあーりはしませんか。これは、私の体験的法律解釈ですが、まず大前提から申し上げれば、基本的に法律よりも、自分の信じる意思の方が上段にあって、その信じる意思が真に普遍的真実を反映しているのなら、法律はその意思の下にあって然るべきものです。要するに、法律というものは、絶対的に個人を支配するものではないということです。ですから、イラクでの自衛隊活動を違憲とする判決が下されても、靖国神社参拝を、憲法で禁止されている宗教活動に当たるという違憲判決を受けても、〈そんなん関係ねえ〉とばかり政治家は無視している。立派な政治家先生が法律を無視する手本をみせてくれているわけです。三権分立という、インチキな建前がありますが、三権分立というのなら、四権分立にして、そこに個人と加えるべきですね。私は、以前このブログで、『小沢一郎と日本の国際貢献』と題して、《日本は国際社会の一員として、国際平和への責任を負わなければならない。そして、それについては国連が中心になって議論をし、国連の同意による、国連の活動としての自衛隊の海外派遣を法制化しなければならない。これは、いかにも正しく、立派な人間の振るまいのように思えます。小沢一郎先生が吉田松陰先生になって、正しい道には困難もある、嫌でも引き受けなければならぬこともある、そのためには命を投げ出す覚悟も必要なのだといっているわけです。しかし、しかしです、しかしそれは正しくとも、日本にとって間違った選択だとわたしは今後論考を進めたいのであります。》と書きました。この先で私が言おうとしたことは、当然、その向こうに『徴兵制』という問題が開けてくるわけです。こういう問題、どういう問題かといえば、個人の意思や自由というものに対置する『徴兵制』、あるいは『裁判員制度』、つまり現実の形として露呈してくる『個人』と『国家』という問題です。私は冒頭、法律というものは、絶対的に個人を支配するものではないと申し上げましたが、それはあたりまえの個人「律」、心構えのようなものです。そうでなければ、法を破って革命など起こせないでしょう。例えば、大日本帝国憲法というものがありますが、その第1章第1条に、《大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス》と書かれているわけです。こんなものは、こんな私でなくとも、今は誰も認められないでしょう。少々話しを纏めますが、『憲法』というものがありますが、ここには、その法体系の総論、基本的理念を表明し、法律はその理念の下に構成されるわけです。私は、市民社会(国家ではなく国)というもは、個人個人が成長し、本当の意味(公正な)での市民法を築かないといけないと思うわけです。話しが纏まるばかりか拡散していきますが、日本の封建社会、あるいは封建制というものは、結局、敗戦まで引きずられて、日本人と、世界の多くの人々の惨憺たる犠牲の上に、崩壊したわけです。取り敢えず崩壊した。そして、それが占領国憲法であろうがなかろうが、『日本国憲法』というものができたわけです。私は、前文を含め、ほぼ素晴らしい憲法だと思いますよ。ただ問題は、第1章の「天皇」と、第2章「戦争の放棄」で、「天皇」については、単純な言い方で申し訳ないけれど、天皇がお気の毒ですよ。今の皇太子は私と同じ世代で、以前は、同世代では私の最も尊敬する人物の一人でした。それは、人間が正直で純で、それが人格から醸し出ていて、奥さんを、私が命懸けで、とは言わなかったけど、私が守ると宣言したでしょう。私の不満は、その奥さんを幸せにはしていないところですが・・、要するに、本来は天皇家は天皇家。昭和天皇の子が天皇を《世襲》するなどという、不公正であり、市民社会の原理に最も反目する概念を憲法で規定することはないのです。ですから、せめて、天皇は国事行為などせず、日本の文化としてこれを保持する程度にして、天皇家が伝承してきた習俗を保存していってもらえればいい(あくまでも、それすら天皇家の自由意志にまかせるべきですが)。「戦争の放棄」については、戦争なんて、こっちの任意で始まるわけではないので、向こうから喧嘩してきたら、どういう方法にしても身を守らないかんわけで、こんな条文は、それこそ基本的市民権に反しますよ。そういうことで、この二つを除けば、前文を含めほぼ素晴らしい憲法だと私は思います。ですから、私は何も単純に法律は守らなくていいと言っているのではないわけです。私は、基本的に日本国憲法を支持しているのですから、革命を起こそうなんて微塵もたくらんでいないわけです。それどころか日本国憲法を遵守する精神です。そこで、長々、だらだら書き綴っておりますが、要するに、私は、死刑制度を是認している日本の司法の要請には従いたくないのです。さらに本心を言えば、死刑制度があろうがなかろうが、権力の側には立ちたくはないのです。こんなふうに言うと、『裁判員制度』は、司法に市民の感覚を反映させて、より公正に行うためだと反論されるでしょう。しかし、そうであるなら(ここのところが一番言いたいポイントなんです。)、この『裁判員制度』には、出頭を拒否すると罰則規定がありますが、そんなものは不要なんです。絶対に任意でなくては駄目なんです。これが、権力の横暴、思い上がりなんです。こういう性質、それは『徴兵制』も同じですが、法律は、こういう問題に関して、市民に対し強制力を有してはいかんのです。こういう問題、というのは、当然、日本国憲法に規定してある、『第19条、思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。』という、本質的な個人の自由意思に懸かる問題ということです。その自由意思は、別に思想的であろうがなかろうが、行きたくなければ、理由などどーうでもいいのです。つまり、少なくとも、この『裁判員制度』の罰則規定は憲法違反であると私は考えます。もっとも、最高裁は、憲法違反という後ろめたさがあるから、召喚を受けた裁判員候補者、裁判員又は補充裁判員が正当な理由なく出頭しないときは、過料に処せられと、何が正当なのかさっぱりわからない言い訳を付けているわけです。要は、売れっ子キャバクラ嬢であろうが、私のように売れない美術商であろうが、行きたくなければ、堂々と拒否していいぞーと私は主張したいわけです。ついでに言うと、WBCの原ジャパンに参加したくなければ、それがケガが理由であろうが、愛国心など微塵もないことが理由であろうが、そんなことはどちらでもいいわけです。そういうことが、自然な市民意識のなかで了解されていく、そういう社会が成熟した市民社会というものだと私は思います。それにしても、世も末、末法の如く、この悪法、『裁判員制度』を日弁連が後押ししているんですからね。

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