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「蟹工船」

昨晩降り始めた雨は、今朝も降り続いて、出窓を叩く雨音がどこか心地いい。わたしは若い頃の一時期、雨が降ると休みになる仕事をしていたので、朝起きて、今日は一日雨になりそうだなと思うと、その一日の収入は無くなっても、そのかわりの自由を与えられたような幸せな気分になったもので、そんな記憶の残像が今もそんな気持ちにさせるのかもしれません。今、小林多喜二の「蟹工船」がブームだという。その理由に、蟹工船に似たような労働状況が今あって、そういうところで働く若者の共感があるからというようなことを誰かが解説していました。わたしは若い頃、小林多喜二を読んで、小林多喜二の描く労働者に自分を重ね合わせて読んだのではなく、プロレタリア作家であり、プロレタリア活動家であったがために、特高警察の拷問を受け惨殺された小林多喜二の生き方に、自分が同時代に生きていたらどうしただろうというように、自分を重ねて読んでいたと思います。そういうわたし自身の若い頃と照らし合わせれば、小林多喜二ではなく、「椎名麟三」という作家のほうが、今の若い人の共感を呼ぶのではないか、そのほうがわかりやすいなという感じがします。《朝、僕は雨でも降っているような音で眼が覚めるのだ。雨はたしかに大降りなのである。それはスレートの屋根から、朝の鈍い光線を含みながら素早く樋へすべり落ち、そして樋の破れた端から滝となって大地の石の上に音高く跳ねかえって沫をあげているように感じられる。しかもその水の単調な連続音はいつ果てるともなく続いているのだ。ただこの雨だれの音にはどこか空虚なところがある。僕が三十年間経験し親しんで来た雨だれの音には、微妙な軽やかな限りない変化があり、それがかえって何か重い実質的なものを感じさせるのだが、この雨だれの音はただ単調で暗いのだ。それはそれが当然なのであって、この雨だれの音は、このアパートの炊事場から流れ出した下水が、運河の石崖へ跳ねかえりながら落ちて行く音なのだ》(深夜の酒宴)という椎名麟三の小説に、わたしは自分を重ねて読みました。椎名麟三という作家は、今はあまり読まれないだろうと思いますが、「蟹工船」を読んだら次は、「一九二八年三月十五日」(小林多喜二)を読んでみる。プロレタリア文学に興味を持ったら、次は中野重治を読んでみる。今の若い人に「蟹工船」がどう読まれているかはわかりませんが、そういうふうに若い人の文学体験がひろがっていけばいいですね。

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