高樹沙耶の逮捕

 芸能人がテレビの場で、社会的な発言をするのは勘弁してほしいですね。それも何が取り柄なのかわからない連中に限って声を大にして発言している。それは芸能人だけではないし、テレビだけではなくマスメディアの中で発言をする全ての人に思うことです。もちろん真っ当な人の真っ当な言論はありますが、それはごく一部に過ぎないでしょう。批評家の吉本隆明さんは、テレビのような何十万人もの人間を前にして語るということに責任を持てないと書いています。それでも、もし発言をしなければならないのなら、漫才師なら漫才の世界の内から、アナウンサーならアナウンサーの世界の内から、音楽家なら音楽の世界の内から、つまり、自分の歩いている道の中で得た言葉で発言をすべきです。しかし、五嶋みどりのような優れたバイオリ二ストであれば、その道を修練しようとして生きているその姿が言葉であって人の心に響くし、その奏でる音がその人の最も信じることのできる言葉であるのですから、余分な戯言を発する必要はないし、そんな暇もないでしょう。

 吉本隆明さんがデレビのような場で発言できないと語ったのは、講演のような場や著作とは違って、何者かも知らないさまざまな人が見て聞いて、さまざまな受け取り方をして、そこには誤解もあるだろうし、例えば「人間は誰でも人を殺すことがあるのだ」と発言をすれば、吉本隆明は、とんでもないやつだというところでしか理解されない場合があるわけです。またそれを聞いて実際に人を殺す人がいても責任を取れないわけです。
 つまり、言葉というものは、発したら、その言葉に覚悟を持たなくてはならないということです。それが公の場であればよほどの覚悟がいるわけです。覚悟もなく、無自覚に無責任な言葉をテレビで言い放つということは、本当に悪いことだと私は思います。文章にしても、発言にしても、あるいは絵画や音楽に託された言葉であっても、言葉というものは、人間を人間たらしめるものであるし、その存在を支えるものです。そういう自覚が彼らにはあるのでしょうか。

 高樹沙耶という人が逮捕され、その経緯は詳しくは知らないですが、本人名義の建物の中で、男二人と共同生活をしていて、そこに大麻が見つかったということで逮捕されたわけです。家の中で大麻が見つかったら、即大麻所持の現行犯で逮捕されるのですか?、それならば、同一建物内で大麻が見つかれば、その建物の住人は全員逮捕されなくてはならない。それはおかしいでしょう。大麻の見つかった高樹沙耶の自宅には、同居人が二人いて、高樹沙耶がそれは自分の物ではないと主張するのであれば、同居人の物である可能性があるのだから、被疑者であっても任意で調べるべきです。
 テレビで芸能人やアナウンサーが高樹沙耶について、警察権力に追随し、犯罪者と決めつけて発言をしていますが、公の場で一個人を犯罪者扱いして、もし、不起訴で釈放されたら、その言葉はどうなるのですか、普通の神経の人間なら、その発した言葉が反転して自分の胸を突き刺すでしょう。普通の神経の人間であれば、その罪の重さに耐えかねて生きてはいけないでしょう。それを恐れるから、真っ当な人間は、よほどの確証と必要がない限り、他人を罰するような言葉を発しないのです。さらに言えば、警察官でも、検察官でも、裁判官でもない人間が、社会的な制裁を加える必要はないのです。一人の権力を持たない市民であるなら、同じ、一人の権力を持たない市民である高樹沙耶の身の上を心配してあげさえすればいいのです。それを仏教では慈悲と言うのです。さらに言えば、一人の権力を持たない同じ人間であるなら、仮に犯罪者であっても守ってあげなくてはならないのです。それを仏教では救済というのです。ここで言う、救済ということは、守ってあげるということがどういうことか、我が身となって考えるということです。

吉本隆明さんは、人は契機さえあれば、誰でも人を殺すことがあるんだと言っている。吉本隆明さんでなくても、親鸞も同じことを言っている。
そういうことを、他人を罰しようとするときは、よくよく考えなくてはなりません。

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選挙

 私は、この歳になるまで一度も選挙というものに行ったことがありません。理由は、一 つは、日本の政治状況に期待するものがないということと、もう一つは、選挙に行かないことが、寄付をしないことと同じく、非国民的と言われることに抵抗(反抗)する気持ちがあったからです。しかし、今度の参議院選挙には、行こうと思います。

 私は、日本の政治状況に期待するものがないと書きましたが、その気持ちに変わりはありません。しかし、今の日本の政治状況は、操舵する船に喩えるならば、戦後以降、緩やかに右に舵をとって操船していたものに、速度全速、右舵一杯と無茶苦茶な号令がかかっているようなものです。先頭で号令を掛けているのは安倍晋三という政治家です。 私は、この政治家は、戦後の歴代総理大臣のなかで最も独善的で思慮に欠ける人物であると思います。彼が操舵を握っているうちは、いずれ船は転覆するだろうと思います 。それがわかっていて、何もしないというわけにはいかない、それが今回、私が初めて選挙に行くことにした一つの大きな理由です。

 改めて、憲法前文と憲法9条を読んでみました。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの 子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は 、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 

憲法9条

 

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 

2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

 以上、憲法前文から、9条を通読すると、改めて言うまでもなく、自衛隊の存在が違憲であることは明白です。その上で、違憲である自衛隊の活動範囲を規定する平和安全法制は、そもそも議論として成り立たないわけです。私は、戦後の日本は、軍事力を持たず、自国の安全を守り、世界の平和に貢献する道を歩むか、そうでなければ、軍隊を持って、世界の平和に貢献する道を歩むか、憲法に置いて明確に示さなかったことが、結果、憲法を正当な法手続きを経ずに憲法を改定するという、国民主権という民主主義国家の根幹を蹂躙する安倍晋三という政治家を生んだのだと思います。

 憲法とは、私たちの社会の根底を支えるものです。憲法とは、《われわれが誇りを持って守らなければならないものとして存在しなくてはならないものです。》では、私たちは、憲法を守ってきたか、守ってはいないではないですか、軍隊をわれわれは持たない、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、軍隊を持たないと高らかに謳いながら、軍隊を持っているではないですか。くどいですが、もう一度繰り返します。憲法というものは、守らなければならないものです。憲法を守るとは、憲法改定をしないということではありません。憲法及び、それによる法律に従った憲法改定であれば、それは憲法を守っているということです。私は今の憲法は、改定するべきであると思います。先に書いたように、軍事力を持たず、自国の安全を守り、世界の平和に貢献する道を歩むか、そうでなければ、軍隊を持って、世界の平和に貢献する道を歩むか、そのどちらかを明記する憲法改定をするべきだと思います。

 一昨日の朝日新聞の一面は、《改憲勢力3分の2に迫る 》です。もはや、日本の政治状況は、安倍晋三の手によって憲法改正に向かうであろうと思います。

 私はこう考えます。

 現行憲法の本質的な問題は、守れない文言を謳ったことです。口ばかりで、諸国民の公正と信義に信頼する決意も勇気もないのに、高邁な理想を謳いあげてしまったのです。私は、安倍晋三に憲法を書き換えられるくらいなら、《憲法とは、守らなければならないものだと信じている人たち》の手で書き換えられるべきだと思います。現行憲法発布以降、歴代政権は、個別的自衛権の範囲内での自衛隊の存在は合憲であるというところまでで、憲法違反を止まってきたのです。安倍晋三という人は、初めて、その連続性を踏み越えて、憲法に違反する法律は憲法違反であるのにも関わらず、平和安全法制という法律によって憲法を踏みにじり、自衛隊の集団的自衛権の行使容認という、憲法9条の定めた根幹部分に対して、真っ向から憲法違反を犯したのです。私は安倍晋三という人は、ヒットラーと同じ匂いがあるのではないかと思います。

 今の世界の状況は、繁栄を謳歌してきた国がある一方で、それを憎悪するイスラム国に代表されるような人たちがいて、彼らを単に圧倒的な軍事力では抑えられなくなっている。国家と国家の対立というこれまでの概念では、戦争というものを捉えられなくなっている。彼らは言わば、獅子身中の虫となって、われわれの肉体に巣食っている。そして、私たちは、自ら原発というもう一つの獅子身中の虫を抱え込んでいる。その二つの獅子身中の虫によって、われわれは、人類の歴史上初めて、人類が滅亡する危険に直面しているのです。
 私たちは、その現実の問題を、一人一人の国民が、真剣に、深く考えて、議論を重ねて、日本人が進むべき道を決めていかなければなりません。また、少しでも間違った道を正していかなければなりません。そうでなければ、日本は本当に転覆してしまう。今の世界は、日本が転覆すれば、世界も転覆しているのです。どちらが先でも同じことです。われわれは、人類滅亡の危機に、人類の歴史上初めて立たされた、そう考えなければなりません。
 私は、安倍晋三を容認する、政治状況の中で、少しでもましな憲法改正ができるような政治状況を作らなければならないと思います。そのためのデモであるなら、参加するべきでしょう、僅か一票の力でも、選挙に参加して、安倍晋三に抵抗しなければなりません。

最後に私の考え方を整理して、どこに投票すべきか考えてみたいと思います。

 私は、自衛隊を憲法によってその存在を認めるべきだと思います。そして、大きく変わった世界情勢と、そこに置かれたわれわれの状況の中で、自衛隊の在り方と、外交政策を考えなければならないと思います。

一、憲法前文は、改定の必要は無い。憲法9条は削除すべきである。

一、自衛隊をリストラし、精鋭部隊に組織改造する。陸上自衛隊は、災害救援隊に改称し、災害救援を第一任務にする。

一、日米安保条約を破棄する。

一、原発はすべて即時停止、廃炉に向けて、その研究と方策に最大限の予算を投じる。

 以上は、私の現在の大枠の考え方の一部です。

 私は今の政治状況にも、政治家にもほとんど絶望しているというのが本当の気持ちです。まともな政治家は存在すると思いますが、まともな政党は一つもない。しかし、それでは未来は開かれて行きませんから、私の考えに少しでも添う政策を持つ政党を選択し、その政党に成長してもらうしかないと思います。また、安倍晋三の間違った政治をを少しでも正して、議会制民主主義を守ってもらわなければなりません。

私は、今回は、公明党に一票を投じるつもりです。

(この論考は、私の親友であり、創価学会会員である、SS夫君と、Mさんに捧げます。)

(追記)
 日本は、現実に軍隊を持っています。ミサイルも戦車も戦闘機も持って、世界有数の軍事力だと言われています。どこに、自国の軍隊を侵略のための軍隊だと喧伝する国があるでしょうか。軍隊は、国民を守るために在るのです。国民を守るために、個別的自衛権も、集団的自衛権もありません。そうであれば、憲法9条は、何のための条文でしょう、国民を守るための足かせになるだけの無用な条文ではないですか。私たちは、軍隊を持つのであれば、決意を以て持たなければなりません。

 安倍政権が法制化した「平和安全法制」には、「自衛の措置の新3要件」というものが附帯され、公明党は、他国防衛を目的とする集団的自衛権は認めさせないと誇らしげに語っていますが、そこには、戦争をする上での当たり前のことが書いてあるだけで、強権政治には全く通用しないものです。われわれにとって最も大切なことは、強権政治に至らせないということです。国民主権の上に、健全な民主政治が機能されることです。それが、決意を以て軍隊を持つということです。そのためには、議員一人一人、国民一人一人が、憲法の精神をよく学び、よく尊重して、民主政治を守っていかなければなりません。私は、今回の参議院議員選挙で公明党に投票しますが、それは、公明党という党にではなく、創価学会会員の一人一人に向けて投票するのです。創価学会の会員の人たちは、日蓮の弟子ですから、日蓮の弟子であれば、民主社会と民主政治を守るために身を挺しても戦ってくれるだろうと信じて投票するのです。いま、創価学会という組織は、巨大になり、公明党という日本の政治に重要な位置を占める政党を持つまでになっています。果たして創価学会という組織は、民主的に機能しているでしょうか、私は毎朝聖教新聞を読みますが、紋切り型で前時代的な文言で、一人のリーダーを毎回毎回繰り返し賛美し続ける紙面に違和感を感じます。

 創価学会の在り方について、疑問を感じることは多々ありますが、それはまた別の機会として、最後に一つだけ、創価学会の人たちは、日蓮の弟子と信じて、内村鑑三が、『人間の内で最も正直な人、日本人の内の最も勇敢な人』と讃えた日蓮の弟子と信じて申し述べます。

 信仰のない宗教は宗教ではありません。信仰のない宗教は、単なるお茶会のようなものです。信仰というものは組織を支えるものではなく、個人を支えるものです。信じる拠り所があるからこそ、個人は外に向けて開かれるのです。創価学会の一人一人の人たちが、外に向けて開かれて、本当の民主主義社会を実現するために、これ以上、安倍政権の強権政治が前に進まないように、力を尽してくれることを切に願います。

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寄付

 昨日は、東京美術倶楽部というところで仕事があって、そこでもまた、熊本地震の寄付金を求められました。寄付行為というものは、本来、極めて個人の自由に委ねられるべき社会的行為であって、またそれは、それぞれ個人が、憲法19条で保障された『思想、信条の自由』を発揮する機会でもあるわけです。寄付を求める側は、あたかも人間の良心に従って、当たり前のように熊本地震被害者のための寄付金(あるいは、義援金、支援金)を求めますが、寄付しないという立場もあるし、さらにいえば、民主主義の根幹というものは、その理由の如何に関わらずその個人の自由が尊重されなければならないのであって、具体的には、そこに強制力が働かないように、寄付を求める側は、自由な判断でよいことをまず明言しなければなりません。

   私自身は、これまで寄付を求められて、それに応じたことはありません。それは、寄付を求める側にも、寄付をする私自身にも何か釈然としないものを感じるし、私なりの寄付への考え方があるからです。
 以前、町内会に属していたとき、その町内会の役員さんから、緑の羽根募金を求められ、それを断ると、その役員さんは非常に憤慨されて帰って行かれました。こういう場面は、寄付に関わることでなくとも、何かを同調するように求められて、何度も経験したことがあります。私はそういうことに慣れている方だと思います。しかし、そういう場面に遭遇する度に、この国の暮らしにくさというものを感じるし、そういう小さな共同体(町内会)によって成り立つ社会は、民主主義に悖る社会だと私は思います。

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ゲスの極みと憲法そして信仰について、その2

  最初に『ゲスの極み乙女』という名前を聞いて、何もんや?と思いましたが、ベッキーとの不倫がばれて、その後の身の処し方を見ると、いたって普通なので、なーんだと思いました。ゲスといのは、下衆ということですから、要するに最低な人間で、さらにその最低の極みだと自称しているわけです。ある意味、こんなカッコつけはないわけです。世間は表向き社会道徳を剣にして彼らを批判していますが、実は世間の一人一人の心の内はそうではなく、なーんだと、彼らの見せかけの不倫に失望しているのだと私は思います。

  男女の関係、そう言うと同性愛を除外してしまうので、吉本隆明さんの言葉を借りて〈対なる〉関係と言いますが、世間の一人一人の心の内が彼らに失望するのは、対なる関係の内に、嘘のない真実の関係を期待するからです。その期待が世間においては、吉本隆明さんの言葉を借りれば、道徳という〈共同幻想〉になって現れるのです。

  私がここで言いたことは、その個人の心の内に、本当の倫理性というものが現れるのであって、世間の批判の内にある道徳などというものは、何の根拠もない社会通念(共同幻想)に過ぎないということです。

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ゲスの極みと憲法そして信仰について、その1

 ゲスの極み、乙武洋匡、宮崎謙介と世間は不倫に厳しいのか、妬んでいるのか、特にテレビや週刊誌は盛んに批判するけれど、少なくとも彼らの人間性を法的に批判する根拠はどこにもないのです。

 その点について言えば、不倫をしてはいけないとか、不貞行為はダメだとか、そんなことは民法のどこにも書いてはありません。不貞行為が離婚理由になるということはありますが、それは婚姻の契約としての問題であって道徳倫理について書かれているわけではありません。憲法第24条には、

〈婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。〉とあります。

ここにも不貞行為、不倫がダメだと書いてあるわけではありません。後段部分の〈相互の協力により、維持されなければならない。〉は、暗に不倫と不貞行為による離婚を戒めているようにも読めますが、本来は、前段部分の婚姻の理念に反する文言であり、夫婦が両性の合意のみに基づくのであれば、その先が不仲であろうが離婚しようが要らぬお節介なわけです。

  このような文脈の違和感は、憲法の随所に見られることで、話が横にずれますが、憲法第9条、〈日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。〉の文言も、国権の発動たる〈戦争〉と最初に明記し、そしてそれを永久に放棄すると言いながら、武力による威嚇とか、武力の行使とか、余分な文言を後ろに続けるのは、文章としても間違っていますし、文章の趣旨を曖昧にする不要な文言なわけです。さらに言えば、憲法全体の趣旨からも、日本国憲法前文において、恒久の平和を念願し、国民主権と基本的人権の保証すると宣言するのであれば、憲法第24条の後段部分である〈相互の協力により、維持されなければならない。〉は、不要な文言であり、憲法第9条においても、〈国際紛争を解決する手段として〉は不要な文言であり、憲法前文の最後に書かれた〈日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。〉という憲法の決意にも反することになるのです。

   ゲスの話しが発展して法律論になり、さらに憲法第9条にまで話が至りましたが、せっかくですので、ついでに申し上げれば、憲法前文において、〈日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。〉と書かれているのですから、つまり、〈平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼〉することによって、憲法第9条はそれに従い、自衛も含めた一切の戦法行為をしてはならないと読まなければ、日本国憲法の正しい読み方にはならないのです。

(続く)

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