岐阜の中学3年生の自殺

  岐阜の中学3年生がマンションの6階から飛び降りて自殺した。マンションの場所は、私の実家からほど近く、その辺りは子供の頃によく歩いた。だから余計に痛ましいということではなく、こういうことが繰り返し起こらないように、我々大人は、子供の自殺は全て大人の責任だと思わなくてはだめだと思う。

  この私の身近に起こった自殺は、報道によると、自殺した生徒は担任の問いかけに、いじめられているとは思っていないと答え、担任はそれでいじめはないと判断したという。私は、同じ中学3年生のちょうど今頃、夏休みを挟んだ三ヶ月くらいのあいだ、いじめにあった経験があります。相手は一年上の同じ中学の卒業生で仮にSとします。私はあることでそのSと関わりができ、Sは私に親しげにつきまとうようになります。しばらくしてSは中学校の教室まで乗り込んできて、同じクラスの男子生徒の胸ぐらを掴んでその生徒を恫喝しました。私はそれを目の当たりにして完全にビビってしまい、Sの支配下に入ってしまいます。私は事あるごとに呼び出され子分のようについて歩くようになります。その間、強くではなく、ゆるく何度も殴られて顔が腫れあがったこともありました。夏休みのある日、中学の校庭の水飲み場にSと二人でいて、そこをある先生が通りかかり、私とSを少し訝しげな顔で見て通り過ぎました。そしてまた戻ってきて、その時Sは私から少し離れたところにいました。その先生は私に、あいつになんかされているのかと小声で聞いてきました。私はそれを否定します。

  私のこの経験は、いじめる側といじめられている側の、極めて起こり得る関係性だと思います。いじめられる側は、いじめられている自分が情けないし恥ずかしいのです。そしてなによりも仕返しが怖いのです。私はそのあと、自力で担任の先生に相談しました。担任は、水飲み場を通り過ぎた先生から、私とSが一緒にいたことを聞いていたそうで、私に仲良くしていたんじゃないかと言いました。私はそう言われて恥ずかしい思いに駆られましたが、それを否定して担任にSが教室に乗り込んできたことや、私につきまとうことを話しました。担任は、なーんだあいつそんなことをしているのかと言って、わかったと言ってくれました。そのあとすぐに担任は、Sを呼びつけて一喝してくれたと思います。それ以来、Sは私につきまとわなくなりました。担任の先生は、殴る蹴るは当たり前の教師でしたので、Sも逆らうことができなかったのだと思います。私は、暴力や威圧でいじめをなくせと言いたいのではありません。また、こんなに簡単にいじめが解決するとも思っていません。しかし、学校現場でのいじめは、先生が先ず頼りなんですから、生徒の様子には心を凝らして深く洞察して、いじめられている生徒の本当の気持ちに触れてやってほしいと思います。私の担任だった殴る蹴るは当たり前のやり方ではなく、言葉の力で全力でいじめられている生徒を救ってほしいと思います。こんなふうにしかいえませんが、教師は、いつでも辞めて構わないという気概を持って、生徒のために先生をしてほしいと思います。そうでなけれは、自殺に追い込まれるほど苦しんでいる生徒を救うことはできないと思います。

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白島さんへ愛をこめて③

  白島さんは、果たして詩人は「高尚」かと私に疑問を投げかけられました。たぶん私の「詩人とは気高いもの」という言葉に対してだと思います。

  私は、最初の子供が生まれる22歳の頃、チリ紙交換業をしていました。それはミミズのように市中を這いずってまわる仕事だと高尚な人は思うかもしれません。私は、気高いという言葉をそういう意味で使ったのではありません。私が言う「詩人とは気高いもの」とは、詩人の魂に対して言ったのです。詩集『死水晶』の「あとがき」に白島さんは次のように書いておられます。


「詩を書き始めてからかれこれ半世紀が経つ。私が十七歳、高校三年生のとき、父親が胃癌で死んだ。五十二歳であった。末期癌特有の症状でガリガリに痩せ衰え、死の直前まで吸っていた煙草にライターで火をつける体力も残っていなかった。医師からも見放され自宅でただそのときが来るのを待つばかりであった。死の数週間ほど前の夜だったが、彼が寝言でうなされ、私の名前を何故か連呼していた。その声が、もう父の享年をひと回り以上も上回ってしまった今でも、鼓膜にこびりついて離れない。父はどのような心境で私の名前を呼び続けたのだろうか。父が死んだ直後のショックは大きかった。自分のベットで横になっていたとき、比喩ではなくベットごと身体が地底に吸い込まれていくような烈しい感覚を覚えた。


  やがて詩との出会いがあった。詩を書くことは私にとって救済であり、自らのタナトスへの憧憬を断ち切る手段でもあった。大学に入ってからの失恋は私をますます孤独の側にひきつけ、生きることに、もがき苦しんだ。異界がどこかに存在するのではなく、今この生こそが異界なのではないかという強い想いに、日々とらわれていた。」 


  ここで白島さんが語られたことは、いわば詩人としての原体験です。そして、先日のツイッターに、「人間の孤独や自我、俗と聖、倫理、一つの作品に向き合う姿勢、表現内容、宇宙や自然の中に屹立する「わたし」という一個の存在、日常ということ、それらをありとあらゆる言葉を用いて表現してみたい、この気持ちは十代に詩と巡り会ってから変わらない、元々、詩は個をみつめ書くものです」と述べられました。

  白島さんはわかっておられるであろうと思いますが、詩を書くということは、白島さんの持つ固有性を表現するのではなく、つまり自己表現ではなく、白島さんという個の向こう側にある言葉を紡ぎだす行為です。ここで言う「言葉」とは、真の存在としての言葉です。私が詩人の魂と言うのは、それに触れようとする魂です。世界に高尚なもの、気高いものがあるとすれば、それ以上気高く、気高くあるべき存在はないと私は思います。私は、プロの詩人と白島さんを呼びましたが、プロというのは作家として生計を立てている人という意味ではなく、(そんなことは、本当にどうでもいいことです。)そういう詩人の魂を持っているかどうかという一点です。私は、詩人でも画家でも音楽家でも、真の芸術家は使徒だと思います。言葉の使徒、美の使徒だと思います。そこにおいて、作家の持つ個人的な原体験のようなものは、軽々乗り越えてほしいと私は思います。また、こうも言えるのかもしれません。原体験というものは、外側からの体験です。白島さんであればお父さんが亡くなられた体験、失恋した体験、仕事上の体験、それらは、悲しい体験であればあるほど、こころを美しくするものでなくてはならないはずです。そうでなければ真の存在である言葉に触れ得ないのではないか、あるいはそこに隠された秘儀に触れ得ないのではないかと思うのです。


  私は、白島さんを詩人だと申し上げた気持ちは今も変わりません。公募展の話は大した話ではありませんが、やはり公募展の入選を励みにするような詩人白島真さんではなく、詩を書くことは、私にとって救済だと『死水晶』のあとがきに書かれた詩人白島真さんを私は好きです。また、詩人として生きてきた誇りを持っていただきたいです。仮に、白島真という詩人を、誰も理解せず、誰も顧みないとしても、《何よりも私の詩のよき理解者である最愛の人》西村エリさん一人、白島さんの横にいてもらえればそれで十分ではないですか。


  さて、もう一つ、白島さんは、ご自身を知識人だと思ったことがないと書かれました。私は、知識人という言葉を知識のある人という意味で使っているのではありません。誤解を恐れず言えば、大衆に対しての知識人ということです。吉本隆明の言葉を借りれば、《知識人というものは、大衆から私的に、知識的な意味で大衆から上昇していくものであって、上昇していくにつれて大衆の共同性から疎外されていく、そういう存在が知識人である。》

  白島さんは学生運動が激しさを増す60年代後半に中央大学法学部に入学されている。そして卒業後の762月、若き桑名正和さんは「レーニンよわがレーニンよ‥」と絶叫する。それはまさに大衆から疎外されたものの叫びです。この桑名正和さんが白島真さんであるなら白島真さんは間違いなく知識人です。

  戦後思想の最も大きな問題はいうまでもなく、知識人における戦争責任論です。それは戦後生まれの白島さんや私の直接な問題ではない。しかし、改憲に向かおうとする現在の政治状況を作った最も大きな責任は、戦後の左翼運動にあるわけです。私の言いたいことはすでにおわかりだと思います。白島さんのようなかた、私は、表現者はみな知識人だと思いますが、知識人だというこに眼を瞑ってはだめだということです。そして詩人が文学者として立つなら、一人の文学者として政治的な課題にも正面から、それは内在的で構いませんが、対抗しうる思想性を持たなければだめだと思います。私は、作家が社会とどう関わるかという問題は、作家にとって非常に重要な問題だと思います。


  以上、長々と要領の得ない説明をしたかもしれません。しかし、私はこれから、書くということ、描くということについて、もっと勉強をしていかなければならないと自覚しました。白島さんはさぞかしご迷惑だったと思いますが、今回の対話は、そのための良い刺激になりました。

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白島さんへ愛をこめて②

白島さんへ

公開は、そう強く申し上げたつもりはありません。ただ二人だけの話にとどめておくのがもったいないからです。白島さんはいつも言葉を尽くしてくれます。私もそうあろうと言葉を発しているつもりです。私は白島さんとの間で生まれる言葉が、必ず詩を書こうとしている若者、画家になろうとしている若者に、表現という問題について、深く考えるきっかけになると信じます。そのために、私は白島さんに向けて言葉を発しているのです。本音を言えば、白島さんにこれから中原中也になってくれなんて思ってはいません。もう私も57歳です。自分のことなどどうだっていいわけです。白島さんがツイッターで返してくれた言葉のそれぞれに対しては、あらためてこのブログで返事を書きます。

とりあえずは、ご返事いただいたことに感謝と敬意を。

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白島さんへ愛をこめて

おはようございます。

馴れ合いの場かどうかというより、もともと癒しの場、馴れ合うための場だと思います。「いいね」しかないところに批判精神などないのですから。そのことはさて置き、仮に呟きであってもそれは言語表現ですから、その言語表現の場について無頓着というわけにはいかないと思います。吉本隆明は、自分はせいぜい千人、二千人の相手にしか発言に責任を持てない、自分の文章を読んで人殺しが出てもそれは責任を持てないと、確かそんなことを書いていたと思います。つまり、それは対等な討論ができない場であるということです。今のSNSの世界が、あるいはネット空間が、そういう自由な論争のできる場として育っているかという問題です。だから、真っ当な人は自己規制して発言をしています。そこは決して民主的な自由な世界ではないということです。

  私は、現代の画家や陶芸家が百貨店という場で作品を発表し売ることに大いに疑問を感じます。百貨店というところは、非常に巧言令色な場所です。バブルの頃から、たいして価値のない作家や、価値のない版画を高額で売りまくって、あとは知らん顔です。日本の美術市場に百貨店はどれだけ悪影響を与えたかその罪は重いと思います。つまりそういう場で、作品を発表する作家の社会意識の低さです。私は、インターネットの世界は、神から人類に与えられた最後の最も素晴らしい贈り物だと思っています。そのことの意味を深く考えたいと思うのです。

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高樹沙耶の逮捕

 芸能人がテレビの場で、社会的な発言をするのは勘弁してほしいですね。それも何が取り柄なのかわからない連中に限って声を大にして発言している。それは芸能人だけではないし、テレビだけではなくマスメディアの中で発言をする全ての人に思うことです。もちろん真っ当な人の真っ当な言論はありますが、それはごく一部に過ぎないでしょう。批評家の吉本隆明さんは、テレビのような何十万人もの人間を前にして語るということに責任を持てないと書いています。それでも、もし発言をしなければならないのなら、漫才師なら漫才の世界の内から、アナウンサーならアナウンサーの世界の内から、音楽家なら音楽の世界の内から、つまり、自分の歩いている道の中で得た言葉で発言をすべきです。しかし、五嶋みどりのような優れたバイオリ二ストであれば、その道を修練しようとして生きているその姿が言葉であって人の心に響くし、その奏でる音がその人の最も信じることのできる言葉であるのですから、余分な戯言を発する必要はないし、そんな暇もないでしょう。

 吉本隆明さんがデレビのような場で発言できないと語ったのは、講演のような場や著作とは違って、何者かも知らないさまざまな人が見て聞いて、さまざまな受け取り方をして、そこには誤解もあるだろうし、例えば「人間は誰でも人を殺すことがあるのだ」と発言をすれば、吉本隆明は、とんでもないやつだというところでしか理解されない場合があるわけです。またそれを聞いて実際に人を殺す人がいても責任を取れないわけです。
 つまり、言葉というものは、発したら、その言葉に覚悟を持たなくてはならないということです。それが公の場であればよほどの覚悟がいるわけです。覚悟もなく、無自覚に無責任な言葉をテレビで言い放つということは、本当に悪いことだと私は思います。文章にしても、発言にしても、あるいは絵画や音楽に託された言葉であっても、言葉というものは、人間を人間たらしめるものであるし、その存在を支えるものです。そういう自覚が彼らにはあるのでしょうか。

 高樹沙耶という人が逮捕され、その経緯は詳しくは知らないですが、本人名義の建物の中で、男二人と共同生活をしていて、そこに大麻が見つかったということで逮捕されたわけです。家の中で大麻が見つかったら、即大麻所持の現行犯で逮捕されるのですか?、それならば、同一建物内で大麻が見つかれば、その建物の住人は全員逮捕されなくてはならない。それはおかしいでしょう。大麻の見つかった高樹沙耶の自宅には、同居人が二人いて、高樹沙耶がそれは自分の物ではないと主張するのであれば、同居人の物である可能性があるのだから、被疑者であっても任意で調べるべきです。
 テレビで芸能人やアナウンサーが高樹沙耶について、警察権力に追随し、犯罪者と決めつけて発言をしていますが、公の場で一個人を犯罪者扱いして、もし、不起訴で釈放されたら、その言葉はどうなるのですか、普通の神経の人間なら、その発した言葉が反転して自分の胸を突き刺すでしょう。普通の神経の人間であれば、その罪の重さに耐えかねて生きてはいけないでしょう。それを恐れるから、真っ当な人間は、よほどの確証と必要がない限り、他人を罰するような言葉を発しないのです。さらに言えば、警察官でも、検察官でも、裁判官でもない人間が、社会的な制裁を加える必要はないのです。一人の権力を持たない市民であるなら、同じ、一人の権力を持たない市民である高樹沙耶の身の上を心配してあげさえすればいいのです。それを仏教では慈悲と言うのです。さらに言えば、一人の権力を持たない同じ人間であるなら、仮に犯罪者であっても守ってあげなくてはならないのです。それを仏教では救済というのです。ここで言う、救済ということは、守ってあげるということがどういうことか、我が身となって考えるということです。

吉本隆明さんは、人は契機さえあれば、誰でも人を殺すことがあるんだと言っている。吉本隆明さんでなくても、親鸞も同じことを言っている。
そういうことを、他人を罰しようとするときは、よくよく考えなくてはなりません。

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