このうそ寒い世の中へ⑤ 新型コロナウイルス感染の流行で思うこと

哀しきかなコロナ狂時代。

古人ハ世を軽く
見なしけるこそ、
面白かるへし。

こんな古人の言葉の滋味にふれて、こころを癒やしてやらなければ、こんな哀しい時代を生きていけやしないですよ。

夢日庵
牡丹花夢庵ト
呼申し、都て
古人ハ世を軽く
見なしけるこそ、
面白かるへし。
君子は変易を
幸と見なし侍る。
出息入息不待、
命終ソレさえ
仏家にハ心得
侍るに、多貴或ハ
長寿のさた耳を
思つるハ愚なる
事そかし。
芭蕉翁ハ幻住庵と
いひ、宗鑑ハ一夜
庵なとゝいえり。
予も定命を
み越へぬれハ
一日過れハ一日の
幸申しと光陰
おくり、尭舜の
御代にあひてハ
嶺角の遊飛を
なす事を得
かたしと、東坡か
述作に等しく
大平長久の
仁にあひし、遍に
有難き事そ
かし。其日×の
歓楽も老躯の
月日を常に
くらしける而已。
角上

夢日庵
牡丹花夢庵(連歌師の牡丹花尚白)という人は言われた。すべて、昔の人は、世の中を軽く見なしているのがおもしろい。立派な君子というのは、世の中の変化をむしろ幸いと考えて、出る息、入る息の短い間でも頼みにならず、命終わることさえあると、仏教の方では心得ている。富貴や長寿のことだけを考えているのは、愚かなことである。芭蕉翁は近江に幻住庵を営み、山崎宗鑑は一夜庵を営んでおられた。
わたしも定命と割り切っているから、一日が過ぎれば一日の幸せだと、日々を暮らしている。尭舜の聖なる御代には嶺角が遊飛することもないという(故事あり)蘇東坡の著述と同じく、大平長久の仁政に出会ったことは、ひとえにありがたいことである。老体でも、その日その日を楽しんで、月日を暮らすだけである。角上

三上角上
延宝3年(1675)~延享4年(1747)
松尾芭蕉の門人。『続猿蓑』・『いつを昔』に入句。
三上千那の養子。別号に瞬匕亭、夕陽観など。大津堅田の本福寺第11世住職。膳所の義仲寺にある芭蕉碑は角上の寄進による。

 

夢日庵 三上角上

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このうそ寒い世の中へ④ 新型コロナウイルス感染の流行で思うこと

今日は2020年11月30日です。

 飲食店への22時閉店要請とか飲食店をターゲットにした締め付けが厳しくなって、それに従う店が大半で、さらに全日閉めてしまう店もちらほらあるし、巷では、私の六本木のギャラリーの近くのthe b ホテルも「コロナの影響を大きく受けて‥」と張り紙をして閉めてしまい、営業をやめてしまったレストランもあちこちに見るようになりました。コロナの話しは、一般国民から感染症の専門家、政府、マスコミの99%の人が、「コロナ脳」になってしまっているような状況で、何を言っても無駄、なるようにしかならない、もう何も言うまいと思っていたのですが、昨日、中目黒の駅前で、マスク反対の抗議集会をする2、30人くらいの若い人達がいたという話しを、中目黒に住んでいる娘から聞いて、その人達に恥じて、あきらめずに、できる限り発言する努力を放棄してはいけないと思い直しました。

 コロナについては、「このうそ寒い世の中へ」として3回に渡って、その時その時の私なりの考えや気持ちを綴ってきましたが、今になっても、言いたいことは同じです。自粛だ、非常事態だ、勝負の三週間だと、いつまでたっても目を血ばらせている連中というのは、自粛の傷みのないところにいて、経済的に恵まれている連中ばかりです。彼らに、飲食店の営業を制限させる資格はありません。そして、ほぼ全ての人が、外を歩いているときでもマスクをしているという社会の様相は、大衆心理の極まりというほかはありません。

 コロナ対策において、指導的な立場にいる人間、特に疫学、公衆衛生など感染症の専門家と呼ばれる学者は、人間の営み全体の専門家ではないのです。人間の営み全体を木の幹に喩えるなら、彼らはその枝葉のことしか考えの及ばない学者バカです。彼らは新型コロナウイルス感染症を二類指定感染症(結核、SARS、MERS等)相当以上にするように提言し、いまだにそれを維持すべきだと主張していますが、彼らは、それによって自殺者が増えようが、人権が蹂躙されようが、営業の自由を侵害しようが、娯楽が制限されようが、芸術活動が制限されようが、そういう人間の様々のありようについてはまったく関心がないのです。そういうことを聞く側、政府、行政は、踊らされるのではなく、全体の幹を見て、人間の営み全体において最善の方策を示していかなくてはなりません。私は、コロナにどう具体的に対したらいいか、以下のように考えます。

 普通の風邪でも、38度も超えたら誰でも息絶え絶えの死にそうな気分になるのです。仮にコロナだとしても、政府の発表するデタラメの累計感染者数を元にしていえば、現在の感染率は、0.13%弱、1000人に2人以下、その2人になって、そのうち死にいたるのは、1.5%、100人に1.5人です。これも、実際の感染者数は、間違いなく、控えめに言って公式の数字の10倍はいるのは確実なのですから、つまりコロナだとしても、死ぬ確率は1000人に1人以下です。熱が出たら、水分補給をして布団にくるまって寝ていたらいいのです。(じっとして体力を維持しつつ身体の体温を上げてウイルスをやっつけるのが第一の治療法です。)陽性だ!コロナだ!隔離だ!入院だ!と犯罪でも犯したかのように吊し上げるから、ストレスで免疫力が落ちて余計に重症化するのです。二、三日しても熱が下がらなかったら、医者へ行って、コロナが陽性でも、肺炎がなければ、家に帰ってまたふとんにくるまっていたらいいのです。仮に肺炎があったとしても、重度でなければ60歳以下は基本的に自宅療養にするべきです。そうすれば、医療崩壊も起こりません。新型コロナウイルス感染症による死者は2.648人(12月14日現在)。平成30年は、約120万人がなんらかの病気で亡くなっています。新型コロナウイルス感染症は、仮に死者が1万人としても病死全体の1%以下の疾病にすぎません。私は、一刻も早く、新型コロナウイルスを現在の二類指定感染症(結核、SARS、MERS等)相当以上の枠から外して、季節性インフルエンザと同等の五類感染症に措置を変えるべきだと思います。今、最も社会に蔓延し、怖い病(やまい)は、新型コロナウイルス感染症ではなく、皆さんが感染して気付かない、コロナだけを異常に怖れる「コロナ脳症」です。

 70歳以上の人に提言します。「子は宝」です。自分の長生きのために若者の健康を奪うのはやめましょう。若者が自由にしたいことができ、学びたいことができる環境を奪うのはやめましょう。子供は薄着で元気に遊べと昔から言うのは、たえずウイルスや菌に曝露して抵抗力を強くするためです。ましてや新型コロナウイルスは子供たちや若者にとってはまったく無害なのですから、大いに密にさせて感染させてあげましょう。年寄りの人達は、良い時代を思う存分生きてこられたのです。公害をまき散らし、バブルに舞い上がって、あげく若者にそのつけを回して、さらに今みさかいなく金をばらまいて、自分たち年寄りの命を守るために、若い人達を犠牲にして苦しめてはだめです。それでも、コロナが怖い、感染したくないと思うなら、家に引きこもっていてください。肺炎が悪化して、運悪く死ぬことになっても、その時は、それも寿命だと思って冥土に行きましょう。

最後に、これだけは言っておきます。

コロナ禍の責任は新型コロナウイルスにあるのではなく、人間にあるのです。コロナ禍は、人間の意識が引き起こした人災だということを決して忘れてはなりません。

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このうそ寒い世の中へ③ 新型コロナウイルス感染の流行で思うこと

(以下は、フェスブックに投稿しようと思いやめたものです。)

  私はフェイスブックで社会的発言をするのを控えてきました。それが的を射ているかは置いて、批判、意見はタブーのように感じているからです。

  しかし、ここに敢えて書こうとするのは、共感をしてくれる人を見つけて、この耐え難い気持ちを少しでもやわらげたいと思うからにほかありません。

  私は岐阜と東京に自宅があり、その行き来を月に数度します。そして、岐阜に帰ってくると、陰日向に、隣人からこう言われます。岡田さんは危ない、あまり近づかないほうがいいと。

  私の娘は去年大学に入り東京で暮らしています。学校もバイト先も閉じていますので、岐阜に帰ろうと思い、故郷の友人に電話をしたそうです。すると、そこで受けた、その友人の母親からの言葉に娘は相当まいったようです。

  こんな話はいま世間ではよく言われていることで珍しい事もないでしょう。しかし、私のような、そんなことを栄養分にして生きているような人間でさえも、じわじわ堪えてくるのです。みなさんはたぶんどちらかの立場に立ったことがおありではないでしょうか。隣人を危険だと思う立場、隣人に危険だと思われる立場のどちらかに。あるいはその両方に。

  私は、コロナ禍をコロナパニック、コロナパニックパンデミックと呼んでいます。それについては、ツイッター、ブログに散々書いてきましたので、ここでは、ひとつだけ、この堪え難い気持ちについてだけ書きます。

  もし、本当に新型コロナウイルス感染症を深刻な病気だと理解するのなら、そして、友人がそれに感染しているかもしれないと思うのなら、先ずは、その友人の身を按じることが友人なのではないでしょうか。

  もし、私の隣人がこれを読んで、何も感じなければ、そもそも、私が友人だと勝手に思っていただけで、私のことを友人だと思っていない人だったということです。そうではなく、ハッと、「そうか!友人に酷い事を言っていたのだ!」と気づくのなら、あなたは知らず知らずコロナパニックになっていたということです。

  漱石は当時死病と怖れられた結核の子規を何度も見舞っています。それは、子規の身を按じる友人だがらです。

 

 

 

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このうそ寒い世の中へ② 新型コロナウイルス感染の流行で思うこと

※以下は、私(長良川画廊店主)が、新型コロナウイルス自粛要請期間中の長良川画廊のスタッフの問題意識に不満があり、

そのことについて、スタッフに向けて私の考えを述べたものです。アルファベット名は、それぞれスタッフの仮名でみな女性です。

 

A子さんも、みなさんももっと深く物事を考えてほしいのです。

僕の書いた、「このうそ寒い世の中へ」は読んでくれた?

『このうそ寒い世の中へ②』をA子さん、C子さん、Sちゃん、Mさんに読んでもらうために書きました。

みなさん、これはぜひ、必ず(笑)、
読んでください。
そして宮台真司さんの言葉も是非読んで聴いてみてください。

みなさんは、この世に無限の可能性を持って生まれてきて、真に自立した存在としてありたい、あるように努力しようと思うことはない?
総理大臣が言うから、知事が言うから、学校が言うから、PTAが言うから、旦那が言うから、ただそれに従って生きているだけかな?
僕は、一お母さんであっても、一主婦であっても、深く社会のありようを考えて、自分自身のありようについても深く考えていてほしいのです。長良川画廊に貢献してくれる人とは、そういう自立した人間であることです。もちろん、そうであれば、もっと良い仕事の場を求めて、もっと良い条件を求めて、自分の可能性をもっと追求することもできるでしょう。そしてもっと素晴らしい母になれるでしょう。

A子さん、みなさん、今、何が長良川画廊の経営を逼迫させているかわかりますか?その他多くの商売、事業をしている人も同じですが、当然、自粛によってです。この自粛は何によって起こったかを知っていますか、みなさんのような安心厨の人たち(安心厨の意味は後から、宮台真司さんの文章を読んでくれたらわかります。宮台真司さんは、現代日本を代表する優秀な社会学者、思想家です。)からの、政府は生ぬるい、遅い、早く非常事態宣言を出せという圧力です。そして、最近は新聞などで多く取り上げられるようになった同調圧力、自粛警察なるものが起こります。
これは、非常に深刻な問題です。これも、安心厨の人たちによって引き起こされているのです。

A子さん、A子さんの娘のBちゃんは、京都の大学で医療の勉強をしていて、そろそろ病院での実習が始まるのかな。A子さんはBちゃんの濃厚接触者なるものになる可能性がありますね。
例えば、昨日娘が岐阜に帰ってきたとC子さんに話したとします。そのC子さんが、A子さんから感染するかもしれないと安心厨になっていたとしたらどうですか。安心厨になって、A子さんが出勤するなら休みたいと陰で僕に相談していたとしたらどう感じますか。
ある親しい経営者の会社は、会社のなかで、感じかた、考えかたの相違から、人間関係の溝が起こっているそうです。そして、その溝は深刻だそうです。なぜなら、そこにある他者と自分との関係性は自己を支える本質的な価値観に触れるからです。つまり、この人とは志を一にできるとかできないとか、この人は信頼できるとかできないとか、そういう人間関係の根本的な差異があからさまになるからです。
もちろん、C子さんはそんなことを僕に相談しませんが、言っていたとしたら、僕は、がっかりして、そういう人と一緒に仕事をしたくないと思うでしょう。それが人間関係の溝なのです。

僕自身は、今回の自粛についてこう考えます。以前ツイッターに書いた言葉をそのまま引用します。

《泉鏡花は食べ物の衛生に極度に神経質で、自分の指さえ信用せず好物のパンも指で摘んだ部分は捨てた。それは赤痢にかかった影響だという(2月19日天声人語より)。同時代に生きた漱石は、当時死病として最も恐れられた結核の子規を何度も見舞っている。則天去私の漱石なら当然のことなのでしょう》

僕は当然、漱石の立場に立ちます。

さて、A子さん、Sちゃん、Mさん、Cさん、もちろん僕も含めて、もっと本をたくさん読みましょう。安倍総理大臣よりも夏目漱石のほうが偉いのです。あるいは、「命がかかってますエゴイスト」の小池百合子よりも太宰治のほうが倫理的なんです。それは、太宰治はとことん自分を最低な(クズ)人間だということを知っているからです。(小池百合子は、自分は立派なことをしている感が満載でしょう)
本を読むとは、知識を得ることが一大事ではありません。漱石は、徹底的に自己と向き合い、他者について、社会について、人間について、歴史について深く考え、言葉に表した人です。漱石を読むということは、その心根に触れることです。そしてその時代精神に触れて、現代を考えるということです。
さらに、漱石も太宰も、「我執」という問題を文学の根底おいて深く洞察したのです。それは、難しいですが、何が善であるか、何が嘘であるか。文学とは人間の本性を掴んでそれを突破するためにあるのかもしれません。そしてそこには、コロナ渦に渦巻くもののその正体を知る鍵が潜んでいるのかもしれません。

さて、僕の意見を書くのはこのくらいにして、僕よりも遥かに優秀で信用できる宮台真司さんの言葉を読んでみてください。聴いてみてください。
宮台真司さんでなくても、今は懐かしい野坂昭如のサントリーの歌にあるように、プラトンでも、ニーチェでもシルレルでも、サルトルでも、僕の尊敬する漱石でも、子規でも、内村鑑三でも、吉本隆明でも、もちろん僕の大恩人である批評家若松英輔さんでも良いのですが、宮台真司さんは、クソとかウヨ豚とか言葉は汚いですが、実は泥臭いほど真っ当な、そして先に名前を出した思想家に連なる人です。そして何より、現代の問題について鋭く的確に発言しています。ぜひ、というか、必ず読んでください。(笑)
読んでくれて、虚心になって、考えてください。いろんなことを。

金子大栄という仏教学者がいます。この人は清沢満之の弟子で近代浄土教学を代表する思想家の一人です。この人は〈人間は二度生まれる〉と言っています。仏教では、お腹から出たときではなく、お母さんの子宮に命を宿した時を一度目の〈生まれる〉とい言います。大栄は次のように続けます。〈自立した人間として自他について考えるようになる時〉、その時が〈二度生まれる〉時だと。つまり、お母さんの子宮の次に、社会という子宮に生まれるとき、それが人間として生まれることだと言うのです。
みなさんは二度生まれていますか?
本当は18歳くらいの時、二度目に生まれないといけないのです。(笑)
また、長くなってしまいました。
とにかく、一にも二にも、考えてください。〈人間は考える葦〉です。
そして、本を読みましょう。
僕は少年の頃、本が大嫌いで、古本屋をしている親父から本を読まない人間はダメな人間だと言われて育ちました。
それが、唯一親父の残してくれた有難い言葉だと思っています。(笑)
では、よろしくお願いします。

青木理×宮台真司『月イチ宮台 - 視座の二重性と共同体意識の欠落』 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=DvkZCSZoSv4


miyadai.comyoより

--『サキドリ』が誇るコメンテーターの皆さんに、気になる動きについて存分に語っていただく「今日のオピニオン」。今日はスペシャル・コメンテーターの宮台真司さんにうかがいます。(中略)宮台さん、今日取り上げる話題は?

宮台
はい。日本人と日本政府のダメさが新型コロナで炙り出されたということ、プラス、これから誰が生き残るのかという話をします。

日本人のダメさを象徴するのが「安心厨」です。「安心」という言葉は英語にはない。あるのは、“feel secure”“feel safe”“feel easy”という言い方。“security”「安全」とツイになるような言葉はない。

なぜかと言うと、「安心」と「安全」は対立するからです。特に不確実な状況下では、ヘタに「安心」をすれば、「安全」がないがしろになるからですね。[それが英語ではfeelという主観性を示す言葉で示されるわけです。]

ところが、日本では、基本「安心厨=ゼロ・リスク・マニア」が多くて、自分の心が安心したいためだけに、何かnoisyなもの、自分にとってイヤなものを攻撃する一方、政府にベターッと貼り付くんですね。[これは善政と移動禁止で知られる江戸期以降のものです。]

安全をないがしろにする安心厨だらけの日本人に、対応しているのが、日本政府のダメさです。先ほど申し上げたような、ヤフコメ[YAHOO!ニュースのコメント欄]を気にし、イコール、ウヨ豚的なコア支持層の支持率を気にして右顧左眄する、倫理のなさですね。

別の言い方をすると、国民のためになる施策は何かという「正しさ」ではなく、支持率に象徴される自分のポジションのため、つまり「損得」のためにだけ、ウロチョロする。つまり「クズ=損得マシーン」が政治をやっている。それが日本政府のダメさです。

日本人のダメさと、日本政府のダメさが、徹底的に明らかになったという意味で、このコロナ禍を福音にすべきです。[すでに犠牲が出ている以上、これを奇貨ととして利用しなければいけないのです。]

先ほどの復習をすると、不確実性下での決定には確実なエビデンスはありません。ところが、ウヨ豚を中心に日本にエビデンス厨が実に多いですね。僕は「エビ厨」って言いますが、「エビ厨」がいかに馬鹿であるかを、彼らの反応がよく表しています

日本は、コロナ感染者数が少ないけど──検査数が少ないので当たり前だけど本当に少ないとすれば──BCG[結核ワクチン]の影響があったかも知れないし、他の人畜無害なコロナ風邪による免疫が効いたのかも知れない。でも不確定。これは過去に関わる不確実性です。

現在も不確実です。無症候感染者が持つ感染力の強さがどんどん明らかになってきているけど、最近までは曖昧でした。症状が出てから検査してきたけれど、感染源の隔離という意味ではもう無意味になりました。[現在の不確実性に配慮したマクシミン戦略=最小利得の最大化戦略を採らなかったわけです。]

未来も不確定です。確実なのはリモート・ワーク化が進むことです。仕事だけじゃなく、「集まりから個人へ」という変化が進みます。娯楽もリモート、医療もリモート、教育もリモート。人々は、家庭や小さな近隣に、閉じ込められていきます。

一方で、集まりの中で行動の過程を見られないので、必ず成果主義になります。[学校の教室を考えれば分かります。]他方で、家庭や近隣から見放された人は、分断と孤立ゆえに不安になって、ますます感情が劣化した安心厨になり、頓馬な政権にベターッと貼りつきます。

さて、これからどんな人がマトモに生き残るのかをお話します。嘘つきの安倍が後にコロナのせいにするでしょうが、コロナ以前から日本はGDPが7.1%マイナスでした。他の先進国は全てプラス。コロナ禍以降では日本は25%GDPが落ちました。他の国は10%前後です。[他にも、最低賃金が欧米の3分の2だったり、一人当たりGDPが昨年イタリアと韓国に抜かれたりと、日本のダメさを示す指標に事欠きません。]

日本が政治的に終っている話はしましたが、経済的にも終っています。なぜ経済的に終っているかといえば、既得権益をいじれないから。アベノミクスでいえば金融緩和と財政出動に続く「第三の矢」の産業構造改革ができていないことに関係します。[第三の矢が、既得権益の負担を軽くするための規制改革だけというのだから、爆笑させられます。]

さて、これからどうなるか。[それが社会も終っているという話なのです。]これからは長くコロナと共生する社会に必ずなります。[ニューヨーク市やチェルシー市で抗体取得者が5人または4人に1人だという事実が象徴的で、撲滅はあり得ません。4人家族がいれば既に1人は無症候感染している(した)計算です。]

そこから先はバランス衡量しかありません。人ごとに、住む地域や家族や職業が違い、地域や家族ごとに生活形式や文化や風土も違います。そんな中で、単一の正解は絶対にないんです。そこから先は、専門的になるけど、ベイズ統計的な戦略が必ず必要になります。

どんな戦略かというと、各事象(ことがら)ごとに事前確率、つまり主観的な確率を割り当て、それら事象ごとにプラマイの期待利得を割り当て、それを合算して、ある決定がどんな帰結を招くのかを利得計算し、他の決定と絶えず比較する、という戦略です。

この計算結果は、個対ごとに想定すべき事象が違い、事象ごとの利得も違うので、個体ごとに異なってくるんですね。このベイズ的戦略にとっての最大の癌が「リスクがあるじゃないか」「政府に逆らって不安を煽るのか」とギャーギャー喚く安心厨です。

[ロックダウンを続ければ都市が死ぬので、ほどなく段階的に解除しますが、リスクがゼロになったからじゃない。]こういうギャーギャー喚く安心厨は、怖くて、家から一歩も出られなくなる。[というか「今後は一歩も家から出るなよ、安心厨(笑)」で終了。]

逆に、バランス衡量しながらベイズ的戦略が取れるのは誰か。分断・孤立を回避し、仲間に守られるがゆえに仲間を守る者です。そうした人だけが、ベイズ的戦略に必要な知識社会化、つまり思い込みの排除ができます。[ベイズ的戦略には、事前確率の割り当てと事象利得の割り当ての適切性が必要なので、1つの頭で考えるだけでは足りないんです。]

次に、安心厨に象徴される感情的劣化層は、若ければ若いほど大きいと考えます。なぜかというと、安倍支持率と感情的劣化率が関係しているというのが、僕の見立てだからです。[余裕がない事情はあれ、正しさより損得を優越させるのが感情的劣化の定義です。また余裕のなさですら「支えられ支える仲間の不在」という生き方によるものです。]

だから、下の世代になるほど感情的劣化層だらけで、感情的通常層が少なくなるということだから、日本は長期的には必ず沈みます。[知識社会化できず、安心厨的に政権にへばりつき、誤った選択や孤独による免疫低下などで、社会的コストを上げるからです。むろんこの社会的劣化が、経済的劣化や政治的劣化をもたらします。]

だからこそ、国家大でのマクロな流れに巻き込まれないで、仲間に支えられ、仲間を支えながら、決して安心せずに、仲間のためにこそベイズ的戦略を動的に変化させるような個人が、勇気と知恵を与え合うネットワークを形成していくことが、必要になります。

日本人にありがちな、横が10万円貰ってるから自分も貰おう、横が貰わないっていうから貰わないでおこう、みたいなのは馬鹿げた選択です。「我が党はもらいません」「なんとか団体の幹部はもらいません」みたいな宣言は、ありえません。[団体内で横並びになれというのは、旧大政翼賛会体制そのもの。貰いたくないなら黙って貰わなければいい。]

まとめます。これからコロナと共存する社会になるのは確実です。でもそれがどんな社会かは不確実です。だから「みんな同じ」は絶対にない。事情がみんな違う。自分たち仲間の事情を自分で考え、仲間の間で訂正し合い、自分で決断するしかありません。

そのためにも[家族を含めて]仲間が必要です。各自ごとに異なる賢明な選択をするには、[知恵も勇気づけも含めて]仲間の助けが必要なのです。その意味で、これからは生き方が問題になるわけです

--なるほど。

宮台
決断が妥当であるほど仲間を助けられます。そうした仲間集団が多い国は新型コロナと共存して生き残ります。そうした仲間集団が少ない国は確実に沈みます。日本が今のままではただ沈むだけで終わります。日本人のダメな生き方を反省するいい機会です。以上です。

--わかりました。宮台真司さんの「今日のオピニオン」でした。

 

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このうそ寒い世の中へ① 新型コロナウイルス感染の流行で思うこと

 新型コロナウイルス感染の流行が拡がり、学校の休校閉鎖、美術館、コンサートホールなどの催物の中止、そのほか多くの集会が中止となり、市民は外出や移動を控えるようになった。それら社会活動が制限されることによって、小売業者、サービス業者を中心に多くの自営業者、企業の経営を切迫させ、派遣労働者のような非正規労働者の雇用の打ち切りが起こっている。これらはすべて政府や行政による自粛要請により、それに多くの市民、団体が従うことによるが、元を正せば、政府よりもむしろ市民の側が、というよりはテレビやSNSに扇動された市民が、非常事態だ、緊急事態宣言が遅すぎると政府を批判し始めたことに端を発する。
 昨年の12月以降、中国武漢から始まった新型コロナウイルス感染の流行は、世界に拡大し、日本以上に市民生活が厳しく制限される国や都市が多く現れている。
 私は、新型コロナウイルス感染流行の問題が、それ以外のあらゆるリスク、諸問題を棚上し、物質的(経済的)精神的、その両方の価値を犠牲にしても立ち向かわなくてはならない人類、社会にとっての最大の危機だと感じ、それに向かって誰もが最善を尽くすことが社会生活者として当然であり、本来なら個人の自由意思に属することであっても、その当然であることに従わせることもやむを得ないことだ、正しい選択なのだという今の社会のありようについて考えたいと思う。これはそのための覚え書きのようなもの、あるいはスケッチであり、このうそ寒い世の中への抗議の記である。

 あなたはなぜマスクをしないのか。
私は、何度かそう批判され、要求された。私は、私自身で情報と知識を得て、風邪症状、咳症状がなければマスクをしなくてもよいと考えた。そして風邪症状、咳症状が無い人がマスクをすることによって、本当に必要としている人にマスクが行き渡らないということは馬鹿げたことだと考えた。そして、できうる限り、例えば高齢者のいる家庭を訪ねる時以外はマスクをしないように心掛けた。今、どこに出かけても、屋内でも、周りに誰もいない公園のような「三密」でない屋外にいる人も、みな一様にマスクをしている。(この「三密」という言葉、「密閉」「密集」「密接」の状態を表す言葉であるが、本来は密教の秘技を現す言葉である。そこにその言葉の真意と密教や空海上人対する畏敬は含まれていない。)
 彼らは花粉症だからマスクをしているのだろうか、あるいは咳症状があるのに無理をして出掛けているのだろうか、あるいは、マスクをしなければ周囲の冷たい視線を浴びると感じそれを避けたいからだろうか。
 マスクをするのはエチケットだと言われたことも何度かある。
60人くらいが集まった屋内の場で、マスクをしていないのは私を含め3,4人だった。そこで最初に挨拶をした人が、「マスクをするのはエチケットだと思いますので、みなさんできるだけマスクをしてください」と呼びかけた。この発言者は、マスクをしている人にもさらなる注意喚起を促したのだと言うのだろうか。私は、「俺のことか」と思ったと同時に納得できない気持ちが言葉になって噴き出そうとした。しかし、その気持ちを押し込むと、「エチケット」という言葉が幾度も頭の中を通り過ぎた。
 マスクをしてほしいと大勢の人が感じているのなら、その人たちの気持ちを思いやってマスクをするのがエチケットというものではないのか。ということだとしたら、私は、そんな程度にしか、マスクについて感じない、考えを深く持とうとしない人たちに失望する。いや、抗議したい。しかし、結局、私は、私自身の生活を支えるこのような仕事の場面、それは、私たち美術商にとっての市場、築地市場と同じ市場であり、私たちは交換会とよぶその仕入れの場すべてで、マスクの着用を要求されるようになり、私はそれに従うようにした。そのことは、本当に性根に応えた。何か思想弾圧を受けて転向したような気分であった。たかがマスクである。だからこそ、私は自分に失望した。こんな程度のことで自分の意見が言えないようでは、戦前であれば、しょっぴかれて二、三発ぶん殴られたら、もうそれで素直なお利口さんになってしまうだろう。私など、幸德秋水、朴烈、金子文子、小林多喜二の足もとにも及ばない。
 それでも、私は日常できる限りマスクをしないでいる。
そのことによる嫌な思いは他にもいくつかある。ある時、バスに乗ると全ての客と運転手がマスクをしている。すると私の近くいた一人の若者が不意に窓を開けた。それはあきらかに私からの感染を警戒しての行動であろう。そして、なぜあなたはマスクをしない?マスクをしてくれよ、迷惑ではないか、そんな優しい言葉ではなく、このクソ野郎と一瞥するような言葉が聞こえた。否、聞こえたような気がした。私は無性にムカついた。しかし、こんな程度のことでムカつくことはないのだ。もっとムカつくことが、もっと嫌なことが起こるかもしれない。私の女房と娘は、咳や鼻水の風邪症状がなければマスクをする必要はないと言って私と同じようにマスクをしない。彼女たちは私以上に理不尽な非難を受けるかもしれない。私であれば、何か危害を受ければ、そいつを殺してやろうといつも身構えているけれど、彼女らは賢明に無事にやり過ごすことができるであろうか。

 コロナは本当に怖いよ。
そう親身になって忠告してくれた同業の誠実な中国人女性Sさんがいる。
「武漢に友達がいて私は直接聞いているの、武漢は本当に怖ろしいことになっているよ、だから岡田さんも本当に気をつけたほうがいいよ。」
 この女性はコロナウイルス感染流行で世の中が喧しくなる初期の頃から自主的に仕事を休んだ。(Sさんはこの後、「コロナに感染した」と根も葉もない噂を流される。)
 私はこの女性に言った。
「Sさんはいつも高速道路を何時間も走って、自宅から仕事場へ、仕事場から仕事場へと疲れていても無理をして働く日々を送っていたでしょう。日本はどれだけの人が交通事故で亡くなってなっているか知ってる?、年間3500人以上亡くなっているんだよ。重傷者にいたってはその10倍いる。毎日10人の人が亡くなって、毎日100人の人が重傷になってる計算だよ。圧倒的に今日、コロナウイルスで死ぬ確率より、今日、交通事故で死ぬ確率の方が高いんだよ。リスクはコロナだけじゃない。ウイルス性肝炎は年間1万人以上亡くなっている。どうして世間はコロナ、コロナと大騒ぎするの?、コロナは数ある感染症と同じ一つの病気なんだよ、結核だっていまだに年間5000人近く亡くなっている。タバコの受動喫煙はどうなの?タバコの煙を吸わされて1万人以上亡くなっていると言われているのは知ってる?、タバコをくわえて、コロナに怯えて、且つ自粛しろなんて言う奴は阿呆でしょう。結局は慣れなんだよ、車に乗ることは慣れているから気にならない。コロナも慣れてしまえば、みんな気にしなくなる。2009年の新型インフルエンザのことは覚えてる?あのときも大騒ぎして、でもみんな忘れているでしょう。」
 しかし、こんなことをいくら並べてもSさんにとっても世間にとっても意味はないのだ。新型コロナウイルスが人類にとって社会にとって、どれだけの脅威か、脅威であったかが推定、推測の域を出ない以上、2016年は下気道感染症によって世界で300万人が亡くなったことについて無関心であり、季節性インフルエンザに起因する死者は日本で例年1万人いるのに、いまだ死者200人に満たない日本でなぜこれほどまで新型コロナウイルスを怖れるのかと疑問を投げかけても意味がないのだ。マスクの効果を検証しても意味が無いことも同じである。

 一昨日、昨日と近くの馴染みのうどん屋さんにお昼を食べに行った。普段ならほぼ満席の岐阜では有名なうどん屋さんである。「今日も誰もいないわ」と私は店ののれんをくぐってすぐに女将さんに向かって憎まれ口を言った。店の奥からは親父さんの「いらっしゃい」といういつもの元気な声が響いてきた。「明日から店を休もうと思う。」そう女将さんは私に向かって言った。壁に眼をやると、〈緊急事態宣言の要請に従い明日から5月6日まで休業します。〉と書かれてある。「なに、本当に休むの」と私は驚いて言った。「知事さんからの要請があるじやない」女将さんそう答えてから、「休業すると50万円貰えるらしいし…」と小声で私に向かって言った。
 私も、くれるものなら欺し取ってでも貰いたい気分だが、美術商は最初から対象外である。しかし、本当にくれるのであろうか。私は僻み半分、悪代官に金を貸してやるくらいが商人の鏡だと言い放っていたいし、国に助けてくれなんて一つも思ったことがないが、本当にくれるのなら随分雑で場当たり的な大金のばらまきだと思う。そうなるのも、世間の警戒心がそこばかりに向いて、行政か世間かどっちが煽られているのかわからないようなところで結局は公共の金が不適切にばらまかれているのだ。商人にのなかにも困っている人はいる。しかし、過酷な環境のなかでギリギリのお金で生き存(ながら)えているような人はもっと別の、社会からは見えないところにいるのだ。彼らは日々持続的に苦難に耐えている。難病の子供を抱える母子家庭の母親。難病であっても、最低限の公的支援すら受けられない、行政の作った指定難病という定義には当てはまらない、指定難病患者の5倍も6倍もいるという人たち。若者は、社会性の乏しい感染源のように言われているが、低収入で国民健康保険すら払えないような劣悪の環境のなかで息を潜めるように暮らしている若い人たちはたくさんいる。うどん屋さんには悪いけど、事業者ではなくそういう個人の人たちの支援を真っ先に優先するのは当然のことではないか。
 今回の新型コロナ感染流行への対策によって、国際通貨基金(IMF)は、世界は500兆円を失う可能性があると報じた。いずれ、この騒ぎは終わる。その時、人々は冷静に、今起こっていることを振り返るべきだ。お金というものは大切なものだ。尊いものだ。大切なお金は働かなければ蓄えることはできない。日本はお金がないから戦争に負けた。「兵站」という後方で物資や兵士を補給することの重要性の認識と兵站を整えるお金がないから戦争に負けた。根拠のない見通しを精神力という言葉に覆って、国を滅ぼし多くの人間を死なせた。第二次戦時下の日本は、B29爆撃機が本土上空に飛来し、高射砲の射程がその高度に届かなくても、当時の首相である東条英機は砲兵に向かって「精神力で打ち落とせ!」と号令をかけた。事実を客観的に考えるということは遠く彼方に追いやれて、そんなことが普通にまかり通るような日本社会が今90歳くらいお年寄りの少年時代に実際にあったのだ。
 
 話しを少し前に戻そう。
 私は、Sさんとのやりとりのなかで、統計的数字を羅列してみせた。しかしそれは新型コロナウイルスの脅威が推定、推測の域を出ない以上、見えない恐怖に怯えることも、それが怯えすぎだともいえないと書いた。しかし、それを前提にしても、私は、なぜここまで新型コロナウイルスを恐れなくてはならないのか、どうしても、どうしても理解することができない。平成30年、日本での老衰、不慮の事故、自殺を除く死亡、つまり病死は119万人。ダイアモンドプリンセス号が横浜に入港した2月3日を起点としてその数字を当てはめれば、今日までの80日間の累計約26万人が病気で亡くなっていることになる。1日にしたら3000人以上だ。一方、新型コロナウイルスの死者は今日の段階で200人満たない。これは、国家の緊急事態に値することだろうか。日本人は日々、癌、心疾患など様々の病気を患い亡くなっている。新型コロナウイルスに感染し肺炎になることも様々な病気の一つに過ぎない。
 小池都知事は緊急事態宣言に関する会見の冒頭、「今日新型コロナウイルス感染でお亡くなりになった方に哀悼の意を申し上げる」と話した。他に亡くなった人に哀悼の意は?と思うことは私の心がねじ曲がっているからだろうか。
  
 私は以前SNS上で、〈経済的安全地帯にいる人が、社会のため、命のためだと大義を掲げ、他人の生活権を奪うことに一つの善意も正当性もない。そこにあるのは強者の論理だけだ〉と書き、名指しで〈小池知事が、一人の玉川徹のようなコメンテーターが、涙が涸れるくらい世間に自粛を訴えるなら、せめて自己の内なる偽善を自覚せよ〉と自分でも恥ずかしくなるような立派な正論を吐いた。しかし、それは今も間違っているとは思わない。さらに、そこには、一方的な価値観の押しつけと、その後ろには、気づこうとしない人間のエゴイズムがあるのだと付け足したい。桜見をする人を、殺人をすることと同じだという論理、あるいは、そんな奴は発病しても治療を受けさせるな、などと言い放つことは、戦前にまかり通った社会風潮と一つも変わらない。しかし、今の社会はそれを容認している。小池知事も玉川徹のような、連日テレビで新型コロナウイルスの脅威をヒステリックに連呼するする人たちは、それを容認している。
 私は、今の社会が、戦時中と同じだと言うつもりはない。しかし、日本人の思考の特質は戦前と一つも変わっていない。それが、新型コロナウイルスによって炙り出されたのだ。私は、政府や行政が国民に要請をすれば、それは正しいことで、従うのが当然で、逆らうことはできないのだという多くの日本人に染みついた権力に対する服従意識は変えておかなければならないと思う。そして、テレビや新聞やソーシャルメディアのなかで、何が有益で何が正しい情報なのかを、自分で考えて、自分で見極めて行動しなくてはならない。そのための勉強は、私たち戦後の繁栄のなかで生きてきた者の勉めではないか。私の言いたいことは、結局このことに行き着くのかもしれない。
 
 人間にはそれぞれ多様な死生観と価値観がある。仏教でもキリスト教でも、命というものを自分の内にではなく、自分の外側にあると感じることがその思想の中心にある。それは、命(肉体)と同じように大切なものが他にあるということだ。いまここで、それについて話を進めることはしない。今は、命と同じくらい大切なものが、今の社会では踏みにじられていると書くにとどめる。それが、美術であり、音楽であり、文学であり、スポーツであり、あるいは商売とか生活を超えて、うどん屋さんがうどん屋さんである、その営みのうちにあるとだけ書き置いて、今回の覚え書きは、一応、了としようと思う。 

 

 

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